小噺帖

極小一次創作。よそで作った三題噺や都々逸の一時的集積所。
極小一次創作。よそで作った三題噺や都々逸の一時的集積所。
059:グランドキャニオン ※蔵出し

059:グランドキャニオン ※蔵出し

 小学生の頃、隣の席の子の消しゴムを駄目にしたのは、誓って悪意からではないのだ。

 ものは正方形の、いわゆるファンシー消しゴム。透明なゴムの中に青いエンゼルフィッシュが泳ぎ、銀箔の泡が涼しげに散りばめられていた。あんまり綺麗だったので見せてもらったのだが、鉛筆でふざけてつついているうちに透明部分を刺した。しまったと思ったが手遅れで、鉛筆を抜いた跡が無残に黒く残った。
 無論慌てて謝った。が、いいよと言ってくれた相手は明らかにテンションが下がっている。気まずい。あまりにも気まずかった。
 と、相手が筆箱から鉛筆を出した。そして、僕の目の前でそれを消しゴムに突き刺したのだ。あっけに取られているうちに消しゴムの透明部分は穴だらけになった。
「ほら、餌まいたの。餌」
 彼女はそういって笑ったが、明らかに作り笑顔だ。なんで無理してまでフォローするかな。その証拠に笑顔はすぐに力をなくし、その日一日を僕らは何ともぎこちない悲しみの中に過ごした。

 * * *

 そういえばあの消しゴム、水族館で買ったって言ってたっけ。脳裏にひらめいたのはその夜だ。
 新しいのを買って返せばいい。車で行った事があるから道は分かっている。幸い明日は休日、朝から自転車で行けば夕方までには帰れる、んじゃないかな。
 当時は気付かなかったが言うまでもなく、僕を駆り立てたのは弁償よりもむしろ冒険である。休日にしては珍しく、僕は朝9時に家を飛び出した。

 * * *

 だが悲しいかな、当時の僕は過小評価していたのだ。内陸部の自宅から沿岸部の水族館まで二時間で着けたのは「土地勘のある父が」「自動車で」「高速道路を」走っていたためであるという現実を。
 家を出て自転車をとばすこと一時間、いまだ記憶の中間地点どころか市内すら脱出できていない事実に僕は愕然とした。それでもめげずに走り続け、ようやく市街地の外、次の市との中間地点の田園地帯に入る。
 が、そこも思わぬ障害だった。進む方向がおおよそ分かっているから大丈夫とはとんだ皮算用、同じように広々した風景ばかりでどこがどこやら見当もつかない。たしかどこかで横の山道に入らなけりゃいけなかったんだけど。
 ついに腹をくくり、えいっとばかり横道にそれた。言うまでもなく、迷った。
 舗装道路は途中で途切れ、それでも道は延々登っていく。ついに力尽きて自転車を押し始めた僕の両脇を、明らかに見覚えのない果樹園だか農家だかがのろのろ流れる。もはや当初の目的を忘れ果て、全自動登山ロボットと化した僕の行く手は、ついに行き止まりの表示に阻まれた。
 日はとうに天頂をまわり、こんな場所でも暑さは増すばかりだ。ありとあらゆる挫折感にノックアウトされて座り込んでいた僕に声をかけたのは、どうやらこの土地の持ち主らしい農家のおじちゃんだった。

 * * *

 僕から事情を聞かされて死ぬほどびっくりしたらしいおじちゃんの行動は、しかし素早かった。近くの自宅に僕を入れてくれ、奥さんらしいおばちゃんに麦茶とお菓子を頼んでくれた。そして僕が命の水よろしく麦茶をラッパ飲みしている間に、家に電話をしてくれたのだ。
 昼過ぎになっても帰宅しない僕を心配していたという両親は、当然ながら法定最高速度ちょっと越えですっ飛んできた。慌てて買ってきたらしいゼリーを奉納の角度でおじちゃんに差し出す父の横で、母は泣きながら僕の頭を連打し、おばちゃんに笑顔で止められていた。まあ男の子はこれくらい元気なのがいいですよ、今思えばずいぶん寛容なおじちゃんとおばちゃんではある。

 * * *

 車のトランクに自転車を乗せ、二人に見送られながら僕らが目指したのは、家でなく水族館だった。ずいぶん寄り道してしまったが、ここから高速に乗れば閉館には滑り込める。土地勘のある父の読みはさすがで、僕らが水族館の売店に駆け込んだ時には閉館十分前のアナウンスが流れ始めた。
 目当ての消しゴムを握り、僕はありったけの小遣いをレジに吐き出した。
 終わった。何もかもが報われた。

 * * *

 が、休み明けに意気揚々とランドセルから消しゴムを取り出した僕は、彼女の筆箱を覗いて愕然とした。
 なんと、あの消しゴムがあったのだ。それも無傷で。
「あのね、スーパーに同じのがあったから、お母さんに」
 ちょっと気が遠くなった。僕の苦労はなんだったんだろう。さんざっぱら走ったあげく道に迷って、母親に頭まではたかれた僕の苦労は。
 と、抜け殻状態の僕の手の中を覗き込んだ彼女が、あれ、と声を上げた。
「ああ、これ。その、穴あけちゃったから、代わりにと思って」
 相変わらず抜け殻のまま、僕は言った。半分はヤケだった。
 と、彼女が自分の消しゴムを差し出した。
「それ、ちょうだい。あたしのあげるから」
 …………。
 えーと、どういうことかな。つまり、こいつのをくれるのか。で、代わりに、僕のこれがこいつに行って。
 頭いいと思った。フォロー上手の面目躍如である。
 僕の差し出した消しゴムを彼女は嬉しそうに受け取った。
「ありがと」
 天使かと思った。

 * * *

 天啓に思えた彼女の気配りが、実はマンガでよくある古典的解決策なのだと僕が悟るのは十年後である。
 ついでに、彼女のくれた消しゴムを机の中に放置した挙句、定規とべったり貼りついた状態で発見して放心するのもその頃だ。
 だが、片面が無残な姿になってなお、それを見て僕が思い出すのはあの一連の騒動、いっそ完璧なまでに「小学生の夏」だったあの数日間の全てなのだ。