人の一生分の髪を全て繋げた長い長い一筋を持たされている。周囲は天地とも灰色で、柔らかいようでも味気ないようでもある。暑くもなく寒くもなく、音もなく静かでもなく、周囲を遠くに囲む地平線のほかは、手元にただ一筋の髪があるきりである。
この髪を手繰ってずっと歩いている。初めに持たされた一端は赤ん坊のそれだったか、蜘蛛の糸よりやわい手応えで空恐ろしかった。たどるほどにそれは次第に黒く、丈夫になっていき、稀に茶色くなったり白が入ったりしながら、今、手の中には艶やかに黒い一筋が続いている。
先を見はるかすと、髪の先端は地平線のずっと手前で消失しているかのようだ。が、それは単に見えないだけで、実際の髪はまだどこまでも続いているのだと私は知っている。
ふと髪から手を放し、一歩離れてみた。さらに二歩、三歩。
髪が視界から消える。周りには地平線が一本きり。
動悸が心なしか早くなった気がし、私は早足で三歩戻った。しかし髪は見当たらず、体内の心臓の音がさらに大きくなる。深呼吸し、空中をそっと手で探る。探り、探り、ようやく手の甲が細い一筋を捉える。深く息を吐く速度でそれを手に収め、再び歩き始める。――こちらの方向で良かったか? ふと余計疑惑が脳裏をよぎり、いやいやこちらしか有り得ないという事実を自分に言い聞かせる。
この旅の終着点、つまりこの髪の持ち主がいくつまで生きる/生きたのかを私は知らない。彼/彼女のことも、果たして私と縁続きなのかどうかも私は知らない。髪はただ一方的に私の道を示し、あくまで黒く艶やかだ。
たまたま入った雑貨屋の棚のスノードームの中では、赤い毛糸帽に青いジャンパーの小さな男の子が無邪気に両手を差し上げ、その上へ音もなく雪が落ち続けている。
ドームに触れてもいないのに、雪は後から後から降り、止む気配もない。そういうものなのだ。
背後のカウンターの店主は物音ひとつ立てない。私は棚の前に棒立ちで、目の前の小さな世界をただ眺めている。
ガラスの中の男の子は、豆粒ほどの顔いっぱいに笑っている。雪が大好きなのだ。雪粒を捕まえようと上へ伸ばす両手には、帽子とお揃いの赤いミトン。青いジャンパーとズボンには自動車のアップリケが入っている。
そして、中に着ているセーターはベージュ色で、馬の模様が入っているはずだ。見えないが、間違いない。
私が編んだからだ。
この世のどこかの店に、死者たちの生前の姿をうつした物が並ぶと聞いたことがある。
スノードームの男の子は私の息子だ。
見間違いようがない。
ただし、昨年私が家を出てして以来、一度も会っていないのだ。
この子の姿が、こうしてここにあるということは……
はっとした。
スノードームの中、男の子の後ろ。
同じくミニチュアの標識に書かれた、歩道の名前。
私は店を飛び出した。
* * *
翌日のラジオニュース。雪でスリップして歩道に突っ込んだ車に撥ねられかけた幼児を間一髪で救ったのは、奇跡的に通りかかった別居中の母だったという。
それを聞き流し、雑貨屋の店主はスノードームを棚から下ろした。
丁寧に磨かれるスノードームは空っぽ――否、台座の裏には「水晶玉」とある。
帝国に併合された小国の宝石細工師たちは、恭順と慶賀のしるしとして地元特産の石を使ったネックレスを皇后に献上した。
様々な大きさの石が不規則に並んだネックレスの出来栄えは見事だったので、皇后は喜んでそれを受け、公の場でたびたび身に付けた。
その姿は旧小国の民の間で瞬く間に評判となり、皇后は一躍人気となった。
皇后は宴席を設けて宝石細工師たちを招き、礼を述べるとともに新しいネックレスを発注した。
皇后が直々に石の並びを考えたというその意匠に、細工師たちは青ざめた。――皇后は口にこそしていないが、実のところ、最初のネックレスの石の並びは不規則どころか旧小国の国歌の歌詞を置き換えたものであり、今度の発注は帝国の国歌だったのだ。
客人たちの顔色を見てとった皇后は美しく微笑み、難しいならこちらでもよいと言ってもう一枚の意匠……旧小国の民謡の歌詞の並び図を出した。
細工師たちが固唾を飲む中、細工師長は確かに承りましたと微笑み、意匠図を二枚とも手に取った。
その後、ネックレスは一本だけ納品された。皇后は全ての細工師を立ち会わせてネックレスを確認し、その並びが帝国国歌であることを見て取り……さらに仔細に点検し、泰然と微笑した。
今度のネックレスの石そのものの並びは帝国国歌だ。が、石は一つ一つ、それぞれ中に異なる物質が混ざり込んだインクルージョンだった。その並びこそもうひとつの意匠、旧小国の民謡なのだった。
皇后は、見事である、褒美を取らせるであろうと述べ、ネックレスの石を貫く鎖を静かに引き抜いた。
訳を知らぬ側近たちは首を傾げたが、細工師たちは息を呑んだ。「鎖を抜く」とはそのまま、旧小国の言い回しで「自由の身とする」の意である。
その後、繋ぎ直したネックレスもまた皇后の御愛用となり、旧小国は自治領として長く続いた。
昔々、たいそうな神通力を持った猿がいた。自分にはお釈迦様だって敵うまいとうぬぼれたところ、お釈迦様はそれならここから出てみるがいいとおっしゃり、ご自分の掌を差し出された。掌はたかだか20センチに満たず、猿はそんな事は朝飯前とばかりに雲を踏んで飛び立った、それこそが大いなるミスディレクションで、20センチにたどり着くためには10センチにたどり着かねばならず、そのためには5センチにたどり着かねばならず、そのためには1センチにたどり着かねばならず、そのためには1ミリにたどり着かねばならず、そのためには1マイクロメートルにたどり着かねばならず、そのためには1ナノメートルにたどり着かねばならず、猿はいまだ掌の中にいる。
027:電光掲示板
中国の書道はいろんな色で書くんだって。習字の時間、半紙にドラえもんを描きながら隣の女の子が何気なく言った。
うそだ、そんなの。即座に返した。テレビで見るやつ、みんな黒い墨だよ。
でも、お父さんがおみやげで買ってきたもん。あたしの名前。
彼女は頬を膨らませて言い、次の日に本当に持ってきたのだ。
花文字というらしい。小さな額に入った一筆箋ほどの半紙。確かに色とりどりの墨で、何かの絵が集まっているように見えた。
――ほら、これが龍。これが蝶々。これが船。で、全部集まると「山田遥」。
ほんとに文字になっている。
ふうんと唸りながらひっくり返すと、それぞれの絵の意味が書いてあった。龍は海運。蝶は美しさ。船は成長。もともとは風水の書道なんだそうだ。
が、そんな意味よりも、墨が黒くないということ、文字は絵で描けるということが僕をとりこにした。
そのエネルギーのまま、放課後、二人で図書室に行った。
非常に実り多き時間だった。エジプトの絵文字は知っていた(ただヒエログリフという呼び名は初耳だった)が、マヤにも絵文字があった。絵の組み合わせでなく、絵の一つ一つが意味のある文字だ。ついでに商人たちの表記として、縄を結んだ目で数を表していたというから、これは書いてすらいない。
それから、アラビアの書道は筆でなく、ヘラのような葦ペンで、太さ細さは力加減なんだそうだ。ついでに二度書きもOKで、これは日本でもぜひ導入すべきだと意見が一致した。そして、黒以外のインクもあり、枠外に好きな模様を足すのもありで、どこが文字でどこが絵か、読めない僕らの頭をくらくらさせた。
――じゃ、ドラえもんだっていいじゃんな。
昨日の落書きを先生に見つかってこつんとやられていた遥は、僕の言葉に吹き出し、慌てて口を押さえた。
――そしたらさ、あたしたちの絵文字作ろうよ。それなら怒られないよ。
ふむ。考え込んだ。怒られないかどうかは別として、一応の筋は立つ。むしろ怒られたときにそれを出したら先生がどんな反応をするか、そちらが楽しみになった。
* * *
次の週、習字の時間。先生が回ってきたタイミングで僕らは同時に、隠していた半紙を広げた。
まずはそれぞれ、自分のフルネームだ。遥はさすが、ネットで調べた花文字が一枚。それから、ドラえもんやらキャラクターで描いたのが一枚。
僕のは乾いた筆で半紙に穴を開けたのが一枚、小石に一文字ずつ書いたのが一そろい。それから、猫のクッキーに無理やり捺させた足跡の半紙だが、こちらは逃げられたので失敗。
もちろん怒られた。が、遥が(鼻高々で)差し出したあの額に、先生はうーんと唸った。
――いいかい、文字には決まりごとがあるんだよ。みんなが読めるようにね。習字は、それを書くルールを学ぶところなんだ。ヒエログリフにも、たぶん花文字やアラビアの書道にも決まりはあるはずだ。
僕らはうつむいて考え込んでしまった。決まり。決まりか。確かに、自分以外の人に読めなければ仕方ないのだ。
けど先生は続けた。
――いや、先生はほめてるんだよ。ほら、一ヵ月後にタイムカプセルを埋めることになってるだろ? それに向けて、何かやってみないかい。
先生の目がいたずらっぽく笑っている。
……そうか。
* * *
ひらめいた僕らは一ヶ月、フルスピードで働いた。
タイムカプセルに入れたのは僕らの作った絵文字表。もちろん色鉛筆の色を全部使った。開封の五十年後までに、これを流行らせればいい。
ついでに、十年後までには、僕は遥に絵文字でメッセージを渡すつもりだ。中身は内緒。
047:ジャックナイフ
忌引きで休んだクラスメートが、なにやら丸い缶を片手に登校してきた。
キャンディー缶にも見えるがパッケージは白地に堂々と漢字で、明らかに、その、タバコの匂いがする。
「うん、これ、タバコ缶。じいちゃんの形見」
やべえ、クラスでトップレベルの真面目君がついにハシャぎよったか。とりあえず見せてもらおうと男子全員が取り囲む中で、奴は缶をオープンした。
「……何入れてんだよ、それ」
「うん、だからじいちゃんの形見」
「形見?」
オウムのように返すしかない俺に、奴は「形見」を一個一個披露してみせた。
「これ、アンモナイトの化石。こっちは肥後守。あと、こっちはカード型文具、外すとペンになるんだ。それから、国鉄の切符と、ミニトランプのキーホルダー……」
禁止品どころか安全物じゃねえか。全員の膝から力が抜けた。とりあえず奴の後頭部を軽くどついておく。
それより何より。
「そもそもお前、何しに持ってきたんだよ」
「まあ、何となく。面白そうだったんで」
再び全員が崩れた。確かに珍しいには違いない。
かくして休み時間が祖父さんの形見をさんざいじくった挙句の撮影会で終わり、俺が肥後守をスマホのロック画面の壁紙にした時。
「おや、懐かしいもの持ってるね、君」
いつの間にか来ていた古文のじいちゃん先生が目を細め、奴は照れくさそうな妙な顔で笑った。
* * *
放課後、僕は丸缶を手に、古文の野村先生のところへ行った。
「先生。ちょっと質問があって。……勉強のことじゃないんですが」
「うん、歓迎だよ」
先生の目は相変わらず細い。
僕は、カバンから丸缶……タバコ缶を出した。銘柄「飛鳥」。
「実は、亡くなった祖父の学生時代の日記が一冊だけ出てきたんです、捨て損ねたらしくて。そこにあすかさんって女の人の名前がでてきちゃって。祖母がその、ちょっとしょんぼりしちゃってて」
「ほう」
「この缶も形見なんですけど、同じ名前だから吸い続けてたんじゃないかって」
先生は僕が渡した缶を開け、注意深く中を見た。
「先生、あの、実は先生の名前も日記に出てて。もし何かご存知だったら、聞かせてくれませんか。じいちゃん無口で、そういうこと言わなかったから、だれもわからなくて」
と、先生が静かに話しだした。
「あすかは僕の妻なんだ。君のおじいさんは大学の先輩でね、彼女を取り合った仲だった。けど、そのずっと前からおじいさんはヘビースモーカーで、『飛鳥』はトレードマークだったよ。……それに、見てごらん」
そういって、先生は缶から国鉄の切符を取り出した。北海道の、幸福駅。
「妻は寒いのが苦手で、北海道には渡った事がない。これはきっと、おじいさんがおばあさんと旅行に行ったときのものじゃないかい」
どきんとした。
「おばあさんに見せてあげるといい。きっとその時の話をしてくれるよ」
なんだか走り出したいようで、缶を受け取りながら僕は頭を下げた。
065:冬の雀
「『はしびろこう』が います。 かおは こわいけど やさしいよ。 おかしが ほしい こは のっく してね」
ひらがなの読めるシオンちゃんが、アパートのドアの貼り紙を大声で読み上げた。
ちょっと黙ったあと、ぼくらは顔を見合わせ、こそこそ話し合った。
お菓子がもらえるのはわかったけど、「はしびろこう」って何だ? 「はしびろ こう」さんの名前じゃないかな。少なくとも、顔は怖いんだよね。でも優しいって。
さんざためらったけど、お菓子は欲しい。なにせハロウィンだ。みんなでかぶってきたカボチャのお面だって、この日のために幼稚園で作ったんだし。
結局、じゃんけんで負けたジンくんがノック係になった。怖がりのジンくんは何度も何度も僕らのほうを見たけど誰も助けには行かず、やっと叩いた音は僕らでも聞き落としそうなほど小さかった。
「どなたですか?」
男の人の声がした。別に怖くない、普通の声だ。ほっとした僕らは、大きな声でいつもの文句を言った。
「お菓子くれなきゃ、いたずらするぞ!」
ちょっと間が空いて、鍵が外れる音がした。ドアノブが回って、ゆっくりドアが開く。
ぬっと出てきた顔は……
あ、おばけ。
思った瞬間、僕ら全員が大声で泣いていた。泣いている自分を置いておいて、もう一人の自分が、出てきた相手をまじまじと観察している。
これは顔なんだろうか。ものすごく大きくてごつい鼻のようなものがぶら下がっているように見えるけど、どこが何なのかさっぱり分からない。ただ、やたらおっかない目だけはわかった。
やっぱり本物のおばけだ。
と、泣いている僕らを見下ろしていたそいつはくるりと背中を向け、しゃがんでめそめそやりはじめた。
何だよ。なんでお前が泣くんだ。泣きたいのはこっちだよ、泣いてるけど。
「お前……お前、何者だ!」
いち早く元気を取り戻したらしいマモルが怒鳴った。何かと兄貴分ぶるけど、こういうときは頼りになる。
その声で、そいつがまたくるりとこちらを向いた。なんだ、うそ泣きじゃないか。
「おれか。おれは、鳥だ」
「鳥?」
「鳥だ。『はしびろこう』という鳥だ」
はしびろこうは鳥の名前か。そういえば、長い「鼻」がくちばしに見えてきた。
「お前ら、お菓子をもらいに来たのか」
そうだ、お菓子だ。よく見ると、そいつは右手にチロルチョコの袋を持っている。
「お菓子、あげるから、一列並べ。順番だぞ」
僕らはちょっとおっかなびっくり列になって、持ってきた手提げを出した。はしびろこうはチョコを五個ずつ入れてくれた。なんだ、いいやつだな。泣いちゃって悪かったかな。
先生に教わったとおり大声でお礼を言って、僕らが帰ろうとしたとき。
「おい、ちょっとまて」
なんと、背後から声がかかった。横でジン君がびくっとした。何だろう、お礼は言ったのにな。
「おれにも、お菓子をくれ」
へ? 僕らは顔を見合わせた。
だってハロウィンだよ。子供がおばけの役になって、お菓子をもらうんだ。
でもこいつはおばけだから、お菓子を取っていくのかな。でもこいつは鳥だから、おばけじゃないよな。それじゃあ……
「おれは、鳥の国から来た。鳥の国にはハロウィンがなくて、誰もおれにお菓子をくれない。おれもお菓子をもらってみたい」
ふーん。
僕らはもう一度顔を見合わせた。ハロウィンがないのか。鳥だからしょうがないんじゃないかな。
でも、あげるばっかりじゃ、確かに可哀想な気もする。
「これ、あげる」
ジンくんが、他の家でもらったパウンドケーキを出した。つられるようにみんな袋をごそごそしてお菓子を探した。僕はちょっと悩んだけど、おまけつきのを出した。
「待て、待て。そんなにいっぱい食えないから、ちっちゃいのでいい。見せてみろ」
はしびろこうが手をぶんぶん振り、マモルの手提げを覗いた。マモルが手提げを差し出してやると、奴はお菓子を返し、飴玉を一個だけ出した。
「これ。これでいい。これくらいのやつだ」
ジンくんとシオンちゃんは代わりにビスコをあげた。僕は五円チョコをあげた。
はしびろこうにお菓子を渡すとき、ちょっとへんな匂いがした。
そんなに嫌な匂いじゃない。どっかでかいだことがあるな。どこだっけかな? 考えていると、はしびろこうがまた声をかけてきた。
「おまえら、いい子だから、もう一個お菓子をやる」
見ると、さっきとは違う袋を持っている。中から出したのは大きなペロペロキャンディ四本。
マンガにしか出てこないやつだ。僕らは興奮しながら手提げを大きく開け、それが入っていくのをじっと見ていた。
やっぱり、いいやつじゃないか。
* * *
家に帰ると、ママに笑われた。鳥がお菓子をくれるなんてうそだ、からかわれたんだと言うんだ。鳥の国の話もしたけど、信じてくれなかった。
僕はぷりぷりしながら、ペロペロキャンディを眺めた。眺めているうち、なんだか悪くなった。
こんな大きなお菓子をくれたのに、五円チョコじゃ可哀想だな。やっぱりおまけつきのをあげよう。
ママに話をすると、一緒に来てくれることになった。はしびろこうにお礼を言いたいんだって。
さっきのアパートのドアをノックすると、出てきたのは人間の、男の人だった。
「ごめんね。はしびろこう、さっき帰っちゃったんだ。お菓子ありがとうって」
そっか。
しょんぼりした僕に、男の人はしゃがんで言った。なぜか、さっきのあの匂いがした。
「はしびろこう、子供のころ、ハロウィンがなかったから、嬉しかったっていってたよ」
帰りがけ、ママが丁寧にお辞儀して、はしびろこうによろしくって言った。
男の人は分かりましたと言って、なぜだかものすごくにっこりした。
* * *
「よかったわね、鳥さんに喜んでもらえて」
帰り道、ママは言った。
「来年も会えるといいわね」
僕もそう思う。来年こそ、大きなお菓子をあげるんだ。
そうそう、あの匂い、何だか思い出した。兄ちゃんの自転車の、ゴムタイヤに似てる。
石に石を継ぐことでいしびとが生まれる。それぞれ単独の石として眠っていた石同士が、合わさることで混ざり合った不安定がいのちなのだそうで、いしびとは一人として同じ歌声のものはなく、一人として同じ不安定のものはない。
私が石継ぎをしているのは、この星が他の星と星継ぎされたからだ。日々雪崩れ込んでくる異種生物や未知の物質に暮らしは侵食され、逆にこちらの様式や法則が向こうに混沌を引き起こす。
こうなる前の世界で、私は歌を作っていた。刻々移り変わる天気を、奔放に伸びゆく草花を、あるいはビルや本やピアノや時計を、身の周りの森羅万象の歌を聞き、また歌っていた。
今、新たな世界体系になる前の混沌に在って、それをミクロで体現するいしびとの中の混ざり合いと似たものを、あるいは違うものを、黄緑色の天気に、草花の燃え方凍り方に、無生物の呼吸音の高低に見出したく、私はいしびとに囲まれて再び歌を聴いている。すでに喉ではないかもしれない私の喉から出る歌は、いしびとの歌に、その外の風ではないかもしれない風に混ぜ込まれていく。
まあとにかく金を遣わないことで有名な彼の家に、泊まったことがある。まあ正確には、翌日目が覚めるや逃げ出した。
金を遣わないと言ったが、どの友人に訊いても彼が人づきあいに支障をきたした話はない。顔を出した飲み会では割り勘分をちゃんと払っていたし、講義の教科書類も自力で工面していた。金の無心をされたことももちろん皆無である。
ただ、全く自分のプライベートな部分ではとにかく金が出て行かなかった。というより、こだわらなかったのだと思う。
着ているものは年間三百六十五日(うるう年は三百六十六日)上から下までユニクロで統一され、学食で頼むのはいつも野菜ジュースとかけ蕎麦、たまにちくわの磯辺揚げが乗っていた。ブックオフと図書館をこよなく愛し、出て行く先も公園だの併設の無料こども動物園である。
* * *
そんな彼のアパートに泊まったのは四年の夏だった。たまたま彼と同じ路線に実家があった僕は、ゼミの飲み会の後でうっかり終電を逃し、ぎりぎり徒歩で帰れる彼の家に転がり込んだ。
しこたま呑んでいたせいか塩味が無性に恋しくなり、近くにコンビニが無いか彼に訊いてみた。すると、作りおきの料理でよければすぐ出せるという。
酔いのせいもあり、「一人暮らし」の底力と彼の人間性にいたく感じ入った僕はその話に飛びついた。すると、彼は冷蔵庫から電気釜の釜部分(!)と鍋(!)を取り出し、ごそごそと何かを始めた。
見間違いかなと眠い目をこすった僕の前に、電子レンジの音と共に差し出されたのはドンブリだった。どうやら飯を炊いた釜と料理を作った鍋をそのまま冷蔵庫に突っ込んで、毎晩要るだけ出しては丼物に仕上げているらしい。
飽きないのか、と聞くと、まあ一週間だから、という返事。
それにしても、ドンブリの中身の色合い。どう頑張っても黒、白、茶色とそれらの中間色しか見えない。飲み過ぎたかなといぶかりながら料理名を尋ねる僕に、彼が説明してくれた。
「特段名前はないよ。ナスとじゃがいもと椎茸と白菜、それからササミと手羽先を炒め煮にして、ブイヨン入れただけ。最後にトロロは足したけど」
ああ、視界に緑黄色が見えないのはそういうわけか。
だが、そう聞くといかにも旨そうな組み合わせだった。ナスも手羽先も食材として有名な割には案外思いつかないし、仕上げにトロロが乗ってるあたりなんか、さすが料理慣れしている。気がする。
実際、見た目に反して味は大変によかった。そんじょそこらのラーメンなど物の数ではない。作りおき三日目とかで、そういえばカレーなんかでも一番旨いあたりだ。
感動のあまり、うっかり要らないことを僕は訊いた。酔いのせいで忘れていたのだ、彼の習性を。
なんでそんな組み合わせにしたんだ?
「ナスと山芋は先週、八百屋で一かご100円だったんだ。あ、ナスは一個腐ってたから、もう一かごサービスしてくれたなあ。白菜とじゃがいもはその前からあった気がする。肉と椎茸は先月、スーパーの見切り品で買い置いて冷凍しといた。米は実家から送ってきたやつだけど、冷蔵庫のだいぶ奥から……」
酔いもぶっ飛ぶ衝撃。
いろいろなものが一時にこみ上げ、僕は目を白黒させた。待て、ちょっと待て。じゃ、新しいのはなんだ。水とブイヨンだけか。
「ブイヨンもおととしのだなあ」
…………。
まあ、百歩譲ってブイヨンはよしとしよう。しかし、そうなると水の方も怪しい。
「……あ、浄水器のフィルター、入居以来換えてないや」
脳内をどうひっくり返しても、こいつが入学以来引っ越した記憶はない。スポーツカーの爆音レベルで耳鳴りがした。いや、案外僕の胃袋が鳴っていたのかもしれない。
とりあえず、この家にバケツか洗面器があるかどうか考えたところまでは覚えている。
* * *
はっと目が覚めるとカーテンは明るく、無造作にしかれた布団の上にひっくり返っていた。隣でむくりと起き上がった彼が「朝食」を出してくれようとしたが、生物としての本能で瞬間的に前日の記憶を取り戻した僕は全力で辞退し、明らかに大袈裟過ぎる礼を言ってアパートを飛び出した。
その後の二日ばかりを不安とともに過ごしたが、とりあえず腹を下す兆候もなく、今日に至るまで平穏無事に生き延びている。
だが、ナスの各々一かご分を、その後僕は近所の八百屋で目にした。一かご、約十個。一人暮らしで週一回、鍋いっぱいの料理を作るとしても、他の食材も入るから、一度に使えるのはせいぜい三個か四個である。で、あいつ、二かご買ったって言ってなかったっけ。
買った時点で見切り品だったということは、使い終わりは。さらに食い終わりは……
だがそれについてはもう、僕の宇宙の範疇外だ。
小学生の頃、隣の席の子の消しゴムを駄目にしたのは、誓って悪意からではないのだ。
ものは正方形の、いわゆるファンシー消しゴム。透明なゴムの中に青いエンゼルフィッシュが泳ぎ、銀箔の泡が涼しげに散りばめられていた。あんまり綺麗だったので見せてもらったのだが、鉛筆でふざけてつついているうちに透明部分を刺した。しまったと思ったが手遅れで、鉛筆を抜いた跡が無残に黒く残った。
無論慌てて謝った。が、いいよと言ってくれた相手は明らかにテンションが下がっている。気まずい。あまりにも気まずかった。
と、相手が筆箱から鉛筆を出した。そして、僕の目の前でそれを消しゴムに突き刺したのだ。あっけに取られているうちに消しゴムの透明部分は穴だらけになった。
「ほら、餌まいたの。餌」
彼女はそういって笑ったが、明らかに作り笑顔だ。なんで無理してまでフォローするかな。その証拠に笑顔はすぐに力をなくし、その日一日を僕らは何ともぎこちない悲しみの中に過ごした。
* * *
そういえばあの消しゴム、水族館で買ったって言ってたっけ。脳裏にひらめいたのはその夜だ。
新しいのを買って返せばいい。車で行った事があるから道は分かっている。幸い明日は休日、朝から自転車で行けば夕方までには帰れる、んじゃないかな。
当時は気付かなかったが言うまでもなく、僕を駆り立てたのは弁償よりもむしろ冒険である。休日にしては珍しく、僕は朝9時に家を飛び出した。
* * *
だが悲しいかな、当時の僕は過小評価していたのだ。内陸部の自宅から沿岸部の水族館まで二時間で着けたのは「土地勘のある父が」「自動車で」「高速道路を」走っていたためであるという現実を。
家を出て自転車をとばすこと一時間、いまだ記憶の中間地点どころか市内すら脱出できていない事実に僕は愕然とした。それでもめげずに走り続け、ようやく市街地の外、次の市との中間地点の田園地帯に入る。
が、そこも思わぬ障害だった。進む方向がおおよそ分かっているから大丈夫とはとんだ皮算用、同じように広々した風景ばかりでどこがどこやら見当もつかない。たしかどこかで横の山道に入らなけりゃいけなかったんだけど。
ついに腹をくくり、えいっとばかり横道にそれた。言うまでもなく、迷った。
舗装道路は途中で途切れ、それでも道は延々登っていく。ついに力尽きて自転車を押し始めた僕の両脇を、明らかに見覚えのない果樹園だか農家だかがのろのろ流れる。もはや当初の目的を忘れ果て、全自動登山ロボットと化した僕の行く手は、ついに行き止まりの表示に阻まれた。
日はとうに天頂をまわり、こんな場所でも暑さは増すばかりだ。ありとあらゆる挫折感にノックアウトされて座り込んでいた僕に声をかけたのは、どうやらこの土地の持ち主らしい農家のおじちゃんだった。
* * *
僕から事情を聞かされて死ぬほどびっくりしたらしいおじちゃんの行動は、しかし素早かった。近くの自宅に僕を入れてくれ、奥さんらしいおばちゃんに麦茶とお菓子を頼んでくれた。そして僕が命の水よろしく麦茶をラッパ飲みしている間に、家に電話をしてくれたのだ。
昼過ぎになっても帰宅しない僕を心配していたという両親は、当然ながら法定最高速度ちょっと越えですっ飛んできた。慌てて買ってきたらしいゼリーを奉納の角度でおじちゃんに差し出す父の横で、母は泣きながら僕の頭を連打し、おばちゃんに笑顔で止められていた。まあ男の子はこれくらい元気なのがいいですよ、今思えばずいぶん寛容なおじちゃんとおばちゃんではある。
* * *
車のトランクに自転車を乗せ、二人に見送られながら僕らが目指したのは、家でなく水族館だった。ずいぶん寄り道してしまったが、ここから高速に乗れば閉館には滑り込める。土地勘のある父の読みはさすがで、僕らが水族館の売店に駆け込んだ時には閉館十分前のアナウンスが流れ始めた。
目当ての消しゴムを握り、僕はありったけの小遣いをレジに吐き出した。
終わった。何もかもが報われた。
* * *
が、休み明けに意気揚々とランドセルから消しゴムを取り出した僕は、彼女の筆箱を覗いて愕然とした。
なんと、あの消しゴムがあったのだ。それも無傷で。
「あのね、スーパーに同じのがあったから、お母さんに」
ちょっと気が遠くなった。僕の苦労はなんだったんだろう。さんざっぱら走ったあげく道に迷って、母親に頭まではたかれた僕の苦労は。
と、抜け殻状態の僕の手の中を覗き込んだ彼女が、あれ、と声を上げた。
「ああ、これ。その、穴あけちゃったから、代わりにと思って」
相変わらず抜け殻のまま、僕は言った。半分はヤケだった。
と、彼女が自分の消しゴムを差し出した。
「それ、ちょうだい。あたしのあげるから」
…………。
えーと、どういうことかな。つまり、こいつのをくれるのか。で、代わりに、僕のこれがこいつに行って。
頭いいと思った。フォロー上手の面目躍如である。
僕の差し出した消しゴムを彼女は嬉しそうに受け取った。
「ありがと」
天使かと思った。
* * *
天啓に思えた彼女の気配りが、実はマンガでよくある古典的解決策なのだと僕が悟るのは十年後である。
ついでに、彼女のくれた消しゴムを机の中に放置した挙句、定規とべったり貼りついた状態で発見して放心するのもその頃だ。
だが、片面が無残な姿になってなお、それを見て僕が思い出すのはあの一連の騒動、いっそ完璧なまでに「小学生の夏」だったあの数日間の全てなのだ。
ネットオークションに出たマグカップはファンの間では伝説的なグッズだった。十六年前、ライブ百回達成記念にアーティスト自らデザインして油性ペンでサインを入れ、十個限定でチャリティオークションに出されたという経緯を持つもので、そのときは十個全てが六桁で落札されている。
今回出たのはそのうちの一個と思われた。オークション開始から二十時間ですでに十人以上が入札、現在価格は八万円に達している。
が、当然、偽物説もほとんど同時に流れた。出品者Q&Aを読む限りでは不審な点は見当たらないが、物が物だ。
そして、コレクターアイテム同然の品物にも関わらず外箱は紛失している。出品者はカップを飾っておきたかったため購入し、箱の保存は考えていなかったと答えていた。まあファンサイトを見る限り外箱は専用ケースなどではなく、ただの段ボールだったので、捨てても不自然はないといえばない。クサいが検証はできないといったところか。
商品写真にはカップ表面のアーティスト直筆サインも載ってはいたが、これについても似せて書くことはいくらでもできるわけで、証明にはならなそうである。
結果、圧倒的多数のファンは喉から手が出る思いをしながらも結局眉唾で成り行きを見守っていた。
* * *
そして実際、そのカップは偽物だった。もっと言えば、試作段階の彩色ダミーである。
アーティストから受注した陶器製造会社の担当者が、倉庫の隅に放置されていたダミーを個人アカウントから出品したのだ。外箱は用意できないため、あえてそのまま出した。サインも当然、模写である。
オークション開始から数時間で価格は大きく跳ね上がった。現在はひとまず落ち着いたらしいが、それでもゆるやかに伸び続けている。
有名人さまさまだ。死後十年も経って、いまだにこうやって金を落としてくれる。
件のアーティストは故人である。スランプで酒に溺れ、深夜自宅で急性アルコール中毒にやられて命を落とした。翌日、連絡がつかないのを不審に思ったマネージャーが迎えに来て発覚したのだ。
生前、名前は全国区で売れており、ヒットも二度ほどあった。当時のファンがあらかた卒業してしまった今になってもコアなファンは残ってくれているようだ。
だが、そいつらは一体誰のファンなんだろう。出品者……僕は時々疑問に思う。
実のところ、アーティストに楽曲を提供していたのは僕だ。学生時代のバンド仲間だったが、大学を出て道が分かれた。
デビュー時代のアーティストの実力は本物だ。自力で書いた曲を路上で歌い続けてスカウトされ、全国区までのし上がった。やっぱりあいつはすげえと、僕含む元仲間はテレビを見ながら噂しあったものだ。
その後、昔のよしみで彼はツアーグッズを友人たちの勤め先に発注してくれるようになった。僕の勤めた陶器製造会社もその一つで、おかげで社内ではずいぶん過ごしやすかった。
が、友人の名前で食わせてもらっている後ろめたさはどうしても消えなかった。まして、かつて自分が諦めた道の中心を歩む友人だ。
だから嬉しかった。彼が自分に、こっそり作詞作曲の相談をしてくれるようになってから。他ならぬプロに頼られている。正直、誇らしかった。
しかしある時期から、アーティストは僕の出した楽曲をそのまま使うようになった。ちょうどアルコールの量が増え始めた頃だ。そして、一時期ほどの勢いはなかったにせよそれらの曲もそこそこ売れたのだ。
ただし、もちろん彼の名前で。
それとなく、彼に言ったことがある。とはいえ金が欲しかったわけではないし、こちらだって彼の名前でだいぶ稼いだ。
であっても、あれは自分の曲なのだ。この自分の。
結果は言わずもがなである。
そしてあの夜。
寝入りばな、アーティストから電話がかかってきたのだ。曲が書けない。もう一度だけ助けてくれ。素人が聞いても相当ろれつが怪しく、時々会話が途切れた。
正直まずいと思った。ただし、頭で。だから言った。
ごめんな、僕もスランプなんだ。もう出せる曲は持ってないよ。
結果は言わずもがなである。
* * *
六日後、マグカップは結局五十三万で落札された。
世に盗人の種はつきまじだ。ため息ひとつも出ないまま、僕はカップを発送し、この件はそれきりになった。
件のカップ、デザインはそのときの新曲のイメージソングで、曲名はFriends。それにすら心は揺れない。
五十三万は酒になるだろう。あれ以来、曲は書かない。
昔、あるところにシラルクとカカンという名の二人の若者がいた。家が隣同士で、二人はほんとうの兄弟のように育った。
だがあるとき、二人は同じ娘に恋をしてしまった。争う二人に娘は、森でいちばん美しい声を持つナイチンゲールを捕まえてきた方の嫁になりましょうと言った。
喜んだのは狩りの得意なシラルクだった。大人しいカカンは顔を曇らせたが、それでも受けて立つことにした。こうして、勝負が始まった。
シラルクは幾日も森を歩き、数えきれないほどの鳥の声を聞いて回った。そして一週間目の夜明け、鈴を振るように美しい鳴き声で目を覚ました。見上げると、頭上の枝に一羽のナイチンゲールがとまって鳴いているのが目に入った。
これだと思ったシラルクは罠を仕掛け、ナイチンゲールを捕まえた。だがそのとき、嬉しさのあまり強く手で抑えたので、小鳥の声は体からすっかり押し出されてしまい、小鳥は歌えなくなった。
いっぽうのカカンは部屋にこもりきりで、土をこねて何やら作っていた。そして一週間目の朝、ようやく一個の土笛を作り上げた。
娘の前で、二人はそれぞれの鳥を披露した。シラルクのナイチンゲールは歌えなかったが、カカンの土笛はナイチンゲールそっくりの美しい音が出た。そのため、娘はカカンの妻になりましょうと言った。
シラルクは悔しくてたまらず、カカンをつかまえて言った。
「やいカカン、お前は俺のナイチンゲールから声を盗んだに違いない。森を歩きもしないで土の塊ばかりこねていて、そんな美しい音が出るものか」
驚いたカカンは言った。
「シラルク、なぜそんな無体なことを言うのか。なら私が、この笛でもってナイチンゲールに歌を教えてやるから、誰の言うことがほんとうか、ナイチンゲールに訊いてみるがいい」
覚えのあるシラルクはぐうの音も出ず、ナイチンゲールを連れてすごすご立ち去った。
シラルクは村外れに小屋を立て、声の出なくなったナイチンゲールを世話しながら暮らしていた。
娘と結婚したカカンはそのまましばらく幸せに暮らしていた。が、ある日、あの笛を見ると、なくしたナイチンゲールの声が詰まっているのに気がついた。
カカンははっとして、その声を持ってシラルクのところへ駆けつけた。シラルクが声をナイチンゲールに戻してやると、ナイチンゲールは美しい娘になった。
こうしてシラルクはナイチンゲールの娘をめとり、カカンと妻はあの笛でそれを祝った。
そののち、みなで幸せにくらしたということだ。