28. 記憶
地球は太陽系第三惑星ではなくなった。太陽クラスの移動天体が付近を通過した際、その引力に取り込まれてしまったのだ。
かくて新しい太陽となった天体は宇宙を移動し続け、それに伴って地球の地軸は不安定に揺れた。日々激烈に変化する重力、気候、地形との戦いに歳月は費やされ、人類の生活は石器時代すれすれまで後退した。そこから七万年を経てさえ文明の発展はスローで、僅かに残った旧文明の痕跡も世代を経てとうに風化している。
人類はかつてのように石壁に絵を刻み、木の葉に文字を刻み、自らの歴史を辛うじて綴りながらようやく旧文明の「近世」と呼ばれるレベルにまで持ち直したが、太陽系移動前のほとんど一切は今や闇の中に等しかった。
* * *
あるとき、夜空を割いて流れた一つの星があった。
それ自体は珍しくない。高速で動く太陽の周りを公転している地球から見れば、あまねく天球の星という星はみな刻々流れ動く川に等しい。星座という概念は存在せず、たった今見ている星とは一期一会である。
しかし、その星は去り行くことなく地球の大気圏に突入し、摩擦熱に耐え切って地上へ落下した。
朝になり、いくたりかの人が恐る恐るその地点へ近づいた。荒野の一隅が深く抉られ、その周囲は火事でも起こったように焦げている。
クレーターの中央に奇妙な物体が落ちていた。半ば以上土にめり込んだそれを、不安定な気候に悪戦苦闘しながら近隣住民総出で掘り起こし、重力の変わり目を狙って引き揚げてみると、小山のような大きさの機械らしき代物である。それが空……宇宙から来たことは、複数の目撃証言で明らかだった。中央政府から派遣された調査団も、(素人目にも分かる事ながら)その物体が当代科学を遥かに凌駕した技術によるものだと結論付けた。
宇宙船か、がらくたか、あるいは凶器か。住民全員の一時退避が済んだ荒野で、危険物処理官がほとんどおっかなびっくり開けたそれからは、まるで使途不明のいくつもの機器と、一枚の金属製の円盤だった。
この円盤が、機器類よりもむしろ人々の耳目を集めた。
そのケース(と思われる外装)はおびただしい絵や記号状の文様で彩られていた。むろん大半は意味不明だが、その中に、故意か偶然か、人間の男女の外観と酷似したシルエットが描かれていたのだ。
しかしそのケースの中身、肝心の円盤に関しては全くの謎だった。明らかに意味を持つと思われるケースの文様に対して、こちらの表面はほとんど無地と言ってよい。
いや、より正確には、文様らしいものはあるのだ。円盤の中心に空いた小さな穴をその中心とする、複数の同心円文様である。
同心円はほとんど隙間なく、盤面全体を使って塗りつぶすように描かれていた。それぞれの円を形作る線の太さはまちまちだが、奇妙なことに線と線の隙間はほぼ同じだった。
分かったことといえばその程度である。その文様が外装と何らかの関係性があることは疑いないがが、これをはたしてどう読み解けばいいのか。研究者たちは頭を抱えた。
ある日、一人の研究者がその同心円を拡大メガネで覗いてみた。と、同心円の線が実は遥かに細い線の集合体であることが見て取れた。
さらに研究を進めてみると、幅広の同心円と思われたその文様は実のところ、円盤の外周付近から始まって中心の穴へ至る、一つの大きな渦巻きだったのだ。
精緻な渦巻きだった。髪の毛より細い細い線が、盤面をほとんど隙間なく何百周も走っている。線は、かつて「同心円の隙間」と思われていた数箇所で一時的に途切れてはいたものの、盤面全体で一つの渦巻きとして成立していた。
そして、その線の表面は平らでなく、奇妙に凸凹していた。渦巻きそのものの精密さに似つかわしくないため、これは意図的な凸凹なのだと考える者が多勢だった。ある者は極小の続き文字だと言い、別の者は縄目文字を連想した。しかし、異星人の文字、まして文法など見当のつけようもなく、お手上げのまま月日が流れた。
突破口は思わぬところからもたらされた。ペットの虫が脚をこすり合わせて鳴き声を立てるのを目にした別の研究者に天啓が下りたのだ。
彼は全員の許可を得て、針のように細い棒で、渦巻きの表面をなぞるように擦っていった。
誰もが息を殺して耳を澄ます中、それははっきりと響いた。
声だ。
意味は知れないが、確かに人間の声だった。言語と思われる複雑な一連の音が、節回しを持ってワンフレーズ。続く声は別の人物、別の節でまたワンフレーズ。幾つもの言語で同じ中身をリレーしているのだろう。恐らくは、こちらへの挨拶を。摩訶不思議な響きの、だが耳に馴染んだ音色のそれらは、節回しを変えて幾人も幾人も続いていく。
呼吸も忘れて聞いていた研究者たちの中から、やがて誰かが挨拶を返した。
釣り込まれるように他の者が続く。それはやがて笑い声になり、部屋に溢れかえった。まるで遠い昔の知人同士が久方ぶりに出会った時のような、腹の底からの泣き笑いだった。
盤面の声がふと途切れ、音に変わった。
言葉ではない、音の旋律だ。これはすぐに分かる。音楽だ。色々の楽器を集めた合奏やら、独奏やら、あるいは歌声やら。先ほどの挨拶の言葉の数だけ収まっているのだろうか。美しい曲もあればよく分からない曲もあり、楽器も奏法も見当がつかない曲、あるいはこの場で真似できそうな曲、節も響きも次々移り変わっては、宙に音の文様を描いていく。
いつの間に知れたのか、警備員や掃除夫、非番の者まで、建物じゅうの人間が部屋のうちそとに詰めかけ、未知の音色に聴き入っていた。
「宇宙の声、解読成功」の知らせは、届く限りの世界を駆け巡った。歌を覚えた楽士や歌手が四つ辻でそれを奏で、通りすがりの聴衆が八方へ広めていく。
かの円盤をもとにした蓄音技術がほどなく開発・普及するに至って、歌は一層身近な娯楽となった。人々は新しい歌に聴き惚れては、果てない空の彼方の何者かに思いを馳せ、厳しい暮らしをいっとき忘れた。
その円盤が旧文明のさる言語で「レコード」と呼ばれていたことなど、むろん彼らは知るよしもない。旧文明の宇宙探査機に積まれたそれ――先祖たちが遠い星の異星人に宛てたはずのそれが、移動天体と共に先回りした当の地球に落下し、他ならぬ末裔たる自分たちの手に入ったことも。
数百年の後、一台の車を曳き、荒野の丘を上る人々の姿があった。
積荷は樽ほどもある金属製のカプセルだった。
中身は、この世界じゅうから集めた挨拶と音楽。あの円盤をもとに作られた、彼ら自身の「レコード」である。
人々が遠巻きに見守る中、カプセルは重力の変わり目に乗って空高く跳ね上がり、そのまま消えた。
* * *
その後のカプセルの飛行経路は観測されていない。数百年後に再度の太陽系移動が起こったためだ。
別の移動天体に逆方向へ持っていかれた地球はさらに甚大な被害に見舞われ、数万年を経て奇跡的に最初の太陽系の第三惑星の位置に戻った時、そこに人類の姿はなかった。
僅かに生き残った生物の中でやがて鳥類が覇権を握り、強大な文明を築いた。
ある時、彼らの神殿からほど近い場所に一つの星が降った。恐る恐る近づいた彼らは、クレーターの中心に金属製の円筒を見出した。
(了)
かくて新しい太陽となった天体は宇宙を移動し続け、それに伴って地球の地軸は不安定に揺れた。日々激烈に変化する重力、気候、地形との戦いに歳月は費やされ、人類の生活は石器時代すれすれまで後退した。そこから七万年を経てさえ文明の発展はスローで、僅かに残った旧文明の痕跡も世代を経てとうに風化している。
人類はかつてのように石壁に絵を刻み、木の葉に文字を刻み、自らの歴史を辛うじて綴りながらようやく旧文明の「近世」と呼ばれるレベルにまで持ち直したが、太陽系移動前のほとんど一切は今や闇の中に等しかった。
* * *
あるとき、夜空を割いて流れた一つの星があった。
それ自体は珍しくない。高速で動く太陽の周りを公転している地球から見れば、あまねく天球の星という星はみな刻々流れ動く川に等しい。星座という概念は存在せず、たった今見ている星とは一期一会である。
しかし、その星は去り行くことなく地球の大気圏に突入し、摩擦熱に耐え切って地上へ落下した。
朝になり、いくたりかの人が恐る恐るその地点へ近づいた。荒野の一隅が深く抉られ、その周囲は火事でも起こったように焦げている。
クレーターの中央に奇妙な物体が落ちていた。半ば以上土にめり込んだそれを、不安定な気候に悪戦苦闘しながら近隣住民総出で掘り起こし、重力の変わり目を狙って引き揚げてみると、小山のような大きさの機械らしき代物である。それが空……宇宙から来たことは、複数の目撃証言で明らかだった。中央政府から派遣された調査団も、(素人目にも分かる事ながら)その物体が当代科学を遥かに凌駕した技術によるものだと結論付けた。
宇宙船か、がらくたか、あるいは凶器か。住民全員の一時退避が済んだ荒野で、危険物処理官がほとんどおっかなびっくり開けたそれからは、まるで使途不明のいくつもの機器と、一枚の金属製の円盤だった。
この円盤が、機器類よりもむしろ人々の耳目を集めた。
そのケース(と思われる外装)はおびただしい絵や記号状の文様で彩られていた。むろん大半は意味不明だが、その中に、故意か偶然か、人間の男女の外観と酷似したシルエットが描かれていたのだ。
しかしそのケースの中身、肝心の円盤に関しては全くの謎だった。明らかに意味を持つと思われるケースの文様に対して、こちらの表面はほとんど無地と言ってよい。
いや、より正確には、文様らしいものはあるのだ。円盤の中心に空いた小さな穴をその中心とする、複数の同心円文様である。
同心円はほとんど隙間なく、盤面全体を使って塗りつぶすように描かれていた。それぞれの円を形作る線の太さはまちまちだが、奇妙なことに線と線の隙間はほぼ同じだった。
分かったことといえばその程度である。その文様が外装と何らかの関係性があることは疑いないがが、これをはたしてどう読み解けばいいのか。研究者たちは頭を抱えた。
ある日、一人の研究者がその同心円を拡大メガネで覗いてみた。と、同心円の線が実は遥かに細い線の集合体であることが見て取れた。
さらに研究を進めてみると、幅広の同心円と思われたその文様は実のところ、円盤の外周付近から始まって中心の穴へ至る、一つの大きな渦巻きだったのだ。
精緻な渦巻きだった。髪の毛より細い細い線が、盤面をほとんど隙間なく何百周も走っている。線は、かつて「同心円の隙間」と思われていた数箇所で一時的に途切れてはいたものの、盤面全体で一つの渦巻きとして成立していた。
そして、その線の表面は平らでなく、奇妙に凸凹していた。渦巻きそのものの精密さに似つかわしくないため、これは意図的な凸凹なのだと考える者が多勢だった。ある者は極小の続き文字だと言い、別の者は縄目文字を連想した。しかし、異星人の文字、まして文法など見当のつけようもなく、お手上げのまま月日が流れた。
突破口は思わぬところからもたらされた。ペットの虫が脚をこすり合わせて鳴き声を立てるのを目にした別の研究者に天啓が下りたのだ。
彼は全員の許可を得て、針のように細い棒で、渦巻きの表面をなぞるように擦っていった。
誰もが息を殺して耳を澄ます中、それははっきりと響いた。
声だ。
意味は知れないが、確かに人間の声だった。言語と思われる複雑な一連の音が、節回しを持ってワンフレーズ。続く声は別の人物、別の節でまたワンフレーズ。幾つもの言語で同じ中身をリレーしているのだろう。恐らくは、こちらへの挨拶を。摩訶不思議な響きの、だが耳に馴染んだ音色のそれらは、節回しを変えて幾人も幾人も続いていく。
呼吸も忘れて聞いていた研究者たちの中から、やがて誰かが挨拶を返した。
釣り込まれるように他の者が続く。それはやがて笑い声になり、部屋に溢れかえった。まるで遠い昔の知人同士が久方ぶりに出会った時のような、腹の底からの泣き笑いだった。
盤面の声がふと途切れ、音に変わった。
言葉ではない、音の旋律だ。これはすぐに分かる。音楽だ。色々の楽器を集めた合奏やら、独奏やら、あるいは歌声やら。先ほどの挨拶の言葉の数だけ収まっているのだろうか。美しい曲もあればよく分からない曲もあり、楽器も奏法も見当がつかない曲、あるいはこの場で真似できそうな曲、節も響きも次々移り変わっては、宙に音の文様を描いていく。
いつの間に知れたのか、警備員や掃除夫、非番の者まで、建物じゅうの人間が部屋のうちそとに詰めかけ、未知の音色に聴き入っていた。
「宇宙の声、解読成功」の知らせは、届く限りの世界を駆け巡った。歌を覚えた楽士や歌手が四つ辻でそれを奏で、通りすがりの聴衆が八方へ広めていく。
かの円盤をもとにした蓄音技術がほどなく開発・普及するに至って、歌は一層身近な娯楽となった。人々は新しい歌に聴き惚れては、果てない空の彼方の何者かに思いを馳せ、厳しい暮らしをいっとき忘れた。
その円盤が旧文明のさる言語で「レコード」と呼ばれていたことなど、むろん彼らは知るよしもない。旧文明の宇宙探査機に積まれたそれ――先祖たちが遠い星の異星人に宛てたはずのそれが、移動天体と共に先回りした当の地球に落下し、他ならぬ末裔たる自分たちの手に入ったことも。
数百年の後、一台の車を曳き、荒野の丘を上る人々の姿があった。
積荷は樽ほどもある金属製のカプセルだった。
中身は、この世界じゅうから集めた挨拶と音楽。あの円盤をもとに作られた、彼ら自身の「レコード」である。
人々が遠巻きに見守る中、カプセルは重力の変わり目に乗って空高く跳ね上がり、そのまま消えた。
* * *
その後のカプセルの飛行経路は観測されていない。数百年後に再度の太陽系移動が起こったためだ。
別の移動天体に逆方向へ持っていかれた地球はさらに甚大な被害に見舞われ、数万年を経て奇跡的に最初の太陽系の第三惑星の位置に戻った時、そこに人類の姿はなかった。
僅かに生き残った生物の中でやがて鳥類が覇権を握り、強大な文明を築いた。
ある時、彼らの神殿からほど近い場所に一つの星が降った。恐る恐る近づいた彼らは、クレーターの中心に金属製の円筒を見出した。
(了)