蔵出し3本(ブラッシュアップ)
027:電光掲示板
中国の書道はいろんな色で書くんだって。習字の時間、半紙にドラえもんを描きながら隣の女の子が何気なく言った。
うそだ、そんなの。即座に返した。テレビで見るやつ、みんな黒い墨だよ。
でも、お父さんがおみやげで買ってきたもん。あたしの名前。
彼女は頬を膨らませて言い、次の日に本当に持ってきたのだ。
花文字というらしい。小さな額に入った一筆箋ほどの半紙。確かに色とりどりの墨で、何かの絵が集まっているように見えた。
――ほら、これが龍。これが蝶々。これが船。で、全部集まると「山田遥」。
ほんとに文字になっている。
ふうんと唸りながらひっくり返すと、それぞれの絵の意味が書いてあった。龍は海運。蝶は美しさ。船は成長。もともとは風水の書道なんだそうだ。
が、そんな意味よりも、墨が黒くないということ、文字は絵で描けるということが僕をとりこにした。
そのエネルギーのまま、放課後、二人で図書室に行った。
非常に実り多き時間だった。エジプトの絵文字は知っていた(ただヒエログリフという呼び名は初耳だった)が、マヤにも絵文字があった。絵の組み合わせでなく、絵の一つ一つが意味のある文字だ。ついでに商人たちの表記として、縄を結んだ目で数を表していたというから、これは書いてすらいない。
それから、アラビアの書道は筆でなく、ヘラのような葦ペンで、太さ細さは力加減なんだそうだ。ついでに二度書きもOKで、これは日本でもぜひ導入すべきだと意見が一致した。そして、黒以外のインクもあり、枠外に好きな模様を足すのもありで、どこが文字でどこが絵か、読めない僕らの頭をくらくらさせた。
――じゃ、ドラえもんだっていいじゃんな。
昨日の落書きを先生に見つかってこつんとやられていた遥は、僕の言葉に吹き出し、慌てて口を押さえた。
――そしたらさ、あたしたちの絵文字作ろうよ。それなら怒られないよ。
ふむ。考え込んだ。怒られないかどうかは別として、一応の筋は立つ。むしろ怒られたときにそれを出したら先生がどんな反応をするか、そちらが楽しみになった。
* * *
次の週、習字の時間。先生が回ってきたタイミングで僕らは同時に、隠していた半紙を広げた。
まずはそれぞれ、自分のフルネームだ。遥はさすが、ネットで調べた花文字が一枚。それから、ドラえもんやらキャラクターで描いたのが一枚。
僕のは乾いた筆で半紙に穴を開けたのが一枚、小石に一文字ずつ書いたのが一そろい。それから、猫のクッキーに無理やり捺させた足跡の半紙だが、こちらは逃げられたので失敗。
もちろん怒られた。が、遥が(鼻高々で)差し出したあの額に、先生はうーんと唸った。
――いいかい、文字には決まりごとがあるんだよ。みんなが読めるようにね。習字は、それを書くルールを学ぶところなんだ。ヒエログリフにも、たぶん花文字やアラビアの書道にも決まりはあるはずだ。
僕らはうつむいて考え込んでしまった。決まり。決まりか。確かに、自分以外の人に読めなければ仕方ないのだ。
けど先生は続けた。
――いや、先生はほめてるんだよ。ほら、一ヵ月後にタイムカプセルを埋めることになってるだろ? それに向けて、何かやってみないかい。
先生の目がいたずらっぽく笑っている。
……そうか。
* * *
ひらめいた僕らは一ヶ月、フルスピードで働いた。
タイムカプセルに入れたのは僕らの作った絵文字表。もちろん色鉛筆の色を全部使った。開封の五十年後までに、これを流行らせればいい。
ついでに、十年後までには、僕は遥に絵文字でメッセージを渡すつもりだ。中身は内緒。
047:ジャックナイフ
忌引きで休んだクラスメートが、なにやら丸い缶を片手に登校してきた。
キャンディー缶にも見えるがパッケージは白地に堂々と漢字で、明らかに、その、タバコの匂いがする。
「うん、これ、タバコ缶。じいちゃんの形見」
やべえ、クラスでトップレベルの真面目君がついにハシャぎよったか。とりあえず見せてもらおうと男子全員が取り囲む中で、奴は缶をオープンした。
「……何入れてんだよ、それ」
「うん、だからじいちゃんの形見」
「形見?」
オウムのように返すしかない俺に、奴は「形見」を一個一個披露してみせた。
「これ、アンモナイトの化石。こっちは肥後守。あと、こっちはカード型文具、外すとペンになるんだ。それから、国鉄の切符と、ミニトランプのキーホルダー……」
禁止品どころか安全物じゃねえか。全員の膝から力が抜けた。とりあえず奴の後頭部を軽くどついておく。
それより何より。
「そもそもお前、何しに持ってきたんだよ」
「まあ、何となく。面白そうだったんで」
再び全員が崩れた。確かに珍しいには違いない。
かくして休み時間が祖父さんの形見をさんざいじくった挙句の撮影会で終わり、俺が肥後守をスマホのロック画面の壁紙にした時。
「おや、懐かしいもの持ってるね、君」
いつの間にか来ていた古文のじいちゃん先生が目を細め、奴は照れくさそうな妙な顔で笑った。
* * *
放課後、僕は丸缶を手に、古文の野村先生のところへ行った。
「先生。ちょっと質問があって。……勉強のことじゃないんですが」
「うん、歓迎だよ」
先生の目は相変わらず細い。
僕は、カバンから丸缶……タバコ缶を出した。銘柄「飛鳥」。
「実は、亡くなった祖父の学生時代の日記が一冊だけ出てきたんです、捨て損ねたらしくて。そこにあすかさんって女の人の名前がでてきちゃって。祖母がその、ちょっとしょんぼりしちゃってて」
「ほう」
「この缶も形見なんですけど、同じ名前だから吸い続けてたんじゃないかって」
先生は僕が渡した缶を開け、注意深く中を見た。
「先生、あの、実は先生の名前も日記に出てて。もし何かご存知だったら、聞かせてくれませんか。じいちゃん無口で、そういうこと言わなかったから、だれもわからなくて」
と、先生が静かに話しだした。
「あすかは僕の妻なんだ。君のおじいさんは大学の先輩でね、彼女を取り合った仲だった。けど、そのずっと前からおじいさんはヘビースモーカーで、『飛鳥』はトレードマークだったよ。……それに、見てごらん」
そういって、先生は缶から国鉄の切符を取り出した。北海道の、幸福駅。
「妻は寒いのが苦手で、北海道には渡った事がない。これはきっと、おじいさんがおばあさんと旅行に行ったときのものじゃないかい」
どきんとした。
「おばあさんに見せてあげるといい。きっとその時の話をしてくれるよ」
なんだか走り出したいようで、缶を受け取りながら僕は頭を下げた。
065:冬の雀
「『はしびろこう』が います。 かおは こわいけど やさしいよ。 おかしが ほしい こは のっく してね」
ひらがなの読めるシオンちゃんが、アパートのドアの貼り紙を大声で読み上げた。
ちょっと黙ったあと、ぼくらは顔を見合わせ、こそこそ話し合った。
お菓子がもらえるのはわかったけど、「はしびろこう」って何だ? 「はしびろ こう」さんの名前じゃないかな。少なくとも、顔は怖いんだよね。でも優しいって。
さんざためらったけど、お菓子は欲しい。なにせハロウィンだ。みんなでかぶってきたカボチャのお面だって、この日のために幼稚園で作ったんだし。
結局、じゃんけんで負けたジンくんがノック係になった。怖がりのジンくんは何度も何度も僕らのほうを見たけど誰も助けには行かず、やっと叩いた音は僕らでも聞き落としそうなほど小さかった。
「どなたですか?」
男の人の声がした。別に怖くない、普通の声だ。ほっとした僕らは、大きな声でいつもの文句を言った。
「お菓子くれなきゃ、いたずらするぞ!」
ちょっと間が空いて、鍵が外れる音がした。ドアノブが回って、ゆっくりドアが開く。
ぬっと出てきた顔は……
あ、おばけ。
思った瞬間、僕ら全員が大声で泣いていた。泣いている自分を置いておいて、もう一人の自分が、出てきた相手をまじまじと観察している。
これは顔なんだろうか。ものすごく大きくてごつい鼻のようなものがぶら下がっているように見えるけど、どこが何なのかさっぱり分からない。ただ、やたらおっかない目だけはわかった。
やっぱり本物のおばけだ。
と、泣いている僕らを見下ろしていたそいつはくるりと背中を向け、しゃがんでめそめそやりはじめた。
何だよ。なんでお前が泣くんだ。泣きたいのはこっちだよ、泣いてるけど。
「お前……お前、何者だ!」
いち早く元気を取り戻したらしいマモルが怒鳴った。何かと兄貴分ぶるけど、こういうときは頼りになる。
その声で、そいつがまたくるりとこちらを向いた。なんだ、うそ泣きじゃないか。
「おれか。おれは、鳥だ」
「鳥?」
「鳥だ。『はしびろこう』という鳥だ」
はしびろこうは鳥の名前か。そういえば、長い「鼻」がくちばしに見えてきた。
「お前ら、お菓子をもらいに来たのか」
そうだ、お菓子だ。よく見ると、そいつは右手にチロルチョコの袋を持っている。
「お菓子、あげるから、一列並べ。順番だぞ」
僕らはちょっとおっかなびっくり列になって、持ってきた手提げを出した。はしびろこうはチョコを五個ずつ入れてくれた。なんだ、いいやつだな。泣いちゃって悪かったかな。
先生に教わったとおり大声でお礼を言って、僕らが帰ろうとしたとき。
「おい、ちょっとまて」
なんと、背後から声がかかった。横でジン君がびくっとした。何だろう、お礼は言ったのにな。
「おれにも、お菓子をくれ」
へ? 僕らは顔を見合わせた。
だってハロウィンだよ。子供がおばけの役になって、お菓子をもらうんだ。
でもこいつはおばけだから、お菓子を取っていくのかな。でもこいつは鳥だから、おばけじゃないよな。それじゃあ……
「おれは、鳥の国から来た。鳥の国にはハロウィンがなくて、誰もおれにお菓子をくれない。おれもお菓子をもらってみたい」
ふーん。
僕らはもう一度顔を見合わせた。ハロウィンがないのか。鳥だからしょうがないんじゃないかな。
でも、あげるばっかりじゃ、確かに可哀想な気もする。
「これ、あげる」
ジンくんが、他の家でもらったパウンドケーキを出した。つられるようにみんな袋をごそごそしてお菓子を探した。僕はちょっと悩んだけど、おまけつきのを出した。
「待て、待て。そんなにいっぱい食えないから、ちっちゃいのでいい。見せてみろ」
はしびろこうが手をぶんぶん振り、マモルの手提げを覗いた。マモルが手提げを差し出してやると、奴はお菓子を返し、飴玉を一個だけ出した。
「これ。これでいい。これくらいのやつだ」
ジンくんとシオンちゃんは代わりにビスコをあげた。僕は五円チョコをあげた。
はしびろこうにお菓子を渡すとき、ちょっとへんな匂いがした。
そんなに嫌な匂いじゃない。どっかでかいだことがあるな。どこだっけかな? 考えていると、はしびろこうがまた声をかけてきた。
「おまえら、いい子だから、もう一個お菓子をやる」
見ると、さっきとは違う袋を持っている。中から出したのは大きなペロペロキャンディ四本。
マンガにしか出てこないやつだ。僕らは興奮しながら手提げを大きく開け、それが入っていくのをじっと見ていた。
やっぱり、いいやつじゃないか。
* * *
家に帰ると、ママに笑われた。鳥がお菓子をくれるなんてうそだ、からかわれたんだと言うんだ。鳥の国の話もしたけど、信じてくれなかった。
僕はぷりぷりしながら、ペロペロキャンディを眺めた。眺めているうち、なんだか悪くなった。
こんな大きなお菓子をくれたのに、五円チョコじゃ可哀想だな。やっぱりおまけつきのをあげよう。
ママに話をすると、一緒に来てくれることになった。はしびろこうにお礼を言いたいんだって。
さっきのアパートのドアをノックすると、出てきたのは人間の、男の人だった。
「ごめんね。はしびろこう、さっき帰っちゃったんだ。お菓子ありがとうって」
そっか。
しょんぼりした僕に、男の人はしゃがんで言った。なぜか、さっきのあの匂いがした。
「はしびろこう、子供のころ、ハロウィンがなかったから、嬉しかったっていってたよ」
帰りがけ、ママが丁寧にお辞儀して、はしびろこうによろしくって言った。
男の人は分かりましたと言って、なぜだかものすごくにっこりした。
* * *
「よかったわね、鳥さんに喜んでもらえて」
帰り道、ママは言った。
「来年も会えるといいわね」
僕もそう思う。来年こそ、大きなお菓子をあげるんだ。
そうそう、あの匂い、何だか思い出した。兄ちゃんの自転車の、ゴムタイヤに似てる。
中国の書道はいろんな色で書くんだって。習字の時間、半紙にドラえもんを描きながら隣の女の子が何気なく言った。
うそだ、そんなの。即座に返した。テレビで見るやつ、みんな黒い墨だよ。
でも、お父さんがおみやげで買ってきたもん。あたしの名前。
彼女は頬を膨らませて言い、次の日に本当に持ってきたのだ。
花文字というらしい。小さな額に入った一筆箋ほどの半紙。確かに色とりどりの墨で、何かの絵が集まっているように見えた。
――ほら、これが龍。これが蝶々。これが船。で、全部集まると「山田遥」。
ほんとに文字になっている。
ふうんと唸りながらひっくり返すと、それぞれの絵の意味が書いてあった。龍は海運。蝶は美しさ。船は成長。もともとは風水の書道なんだそうだ。
が、そんな意味よりも、墨が黒くないということ、文字は絵で描けるということが僕をとりこにした。
そのエネルギーのまま、放課後、二人で図書室に行った。
非常に実り多き時間だった。エジプトの絵文字は知っていた(ただヒエログリフという呼び名は初耳だった)が、マヤにも絵文字があった。絵の組み合わせでなく、絵の一つ一つが意味のある文字だ。ついでに商人たちの表記として、縄を結んだ目で数を表していたというから、これは書いてすらいない。
それから、アラビアの書道は筆でなく、ヘラのような葦ペンで、太さ細さは力加減なんだそうだ。ついでに二度書きもOKで、これは日本でもぜひ導入すべきだと意見が一致した。そして、黒以外のインクもあり、枠外に好きな模様を足すのもありで、どこが文字でどこが絵か、読めない僕らの頭をくらくらさせた。
――じゃ、ドラえもんだっていいじゃんな。
昨日の落書きを先生に見つかってこつんとやられていた遥は、僕の言葉に吹き出し、慌てて口を押さえた。
――そしたらさ、あたしたちの絵文字作ろうよ。それなら怒られないよ。
ふむ。考え込んだ。怒られないかどうかは別として、一応の筋は立つ。むしろ怒られたときにそれを出したら先生がどんな反応をするか、そちらが楽しみになった。
* * *
次の週、習字の時間。先生が回ってきたタイミングで僕らは同時に、隠していた半紙を広げた。
まずはそれぞれ、自分のフルネームだ。遥はさすが、ネットで調べた花文字が一枚。それから、ドラえもんやらキャラクターで描いたのが一枚。
僕のは乾いた筆で半紙に穴を開けたのが一枚、小石に一文字ずつ書いたのが一そろい。それから、猫のクッキーに無理やり捺させた足跡の半紙だが、こちらは逃げられたので失敗。
もちろん怒られた。が、遥が(鼻高々で)差し出したあの額に、先生はうーんと唸った。
――いいかい、文字には決まりごとがあるんだよ。みんなが読めるようにね。習字は、それを書くルールを学ぶところなんだ。ヒエログリフにも、たぶん花文字やアラビアの書道にも決まりはあるはずだ。
僕らはうつむいて考え込んでしまった。決まり。決まりか。確かに、自分以外の人に読めなければ仕方ないのだ。
けど先生は続けた。
――いや、先生はほめてるんだよ。ほら、一ヵ月後にタイムカプセルを埋めることになってるだろ? それに向けて、何かやってみないかい。
先生の目がいたずらっぽく笑っている。
……そうか。
* * *
ひらめいた僕らは一ヶ月、フルスピードで働いた。
タイムカプセルに入れたのは僕らの作った絵文字表。もちろん色鉛筆の色を全部使った。開封の五十年後までに、これを流行らせればいい。
ついでに、十年後までには、僕は遥に絵文字でメッセージを渡すつもりだ。中身は内緒。
047:ジャックナイフ
忌引きで休んだクラスメートが、なにやら丸い缶を片手に登校してきた。
キャンディー缶にも見えるがパッケージは白地に堂々と漢字で、明らかに、その、タバコの匂いがする。
「うん、これ、タバコ缶。じいちゃんの形見」
やべえ、クラスでトップレベルの真面目君がついにハシャぎよったか。とりあえず見せてもらおうと男子全員が取り囲む中で、奴は缶をオープンした。
「……何入れてんだよ、それ」
「うん、だからじいちゃんの形見」
「形見?」
オウムのように返すしかない俺に、奴は「形見」を一個一個披露してみせた。
「これ、アンモナイトの化石。こっちは肥後守。あと、こっちはカード型文具、外すとペンになるんだ。それから、国鉄の切符と、ミニトランプのキーホルダー……」
禁止品どころか安全物じゃねえか。全員の膝から力が抜けた。とりあえず奴の後頭部を軽くどついておく。
それより何より。
「そもそもお前、何しに持ってきたんだよ」
「まあ、何となく。面白そうだったんで」
再び全員が崩れた。確かに珍しいには違いない。
かくして休み時間が祖父さんの形見をさんざいじくった挙句の撮影会で終わり、俺が肥後守をスマホのロック画面の壁紙にした時。
「おや、懐かしいもの持ってるね、君」
いつの間にか来ていた古文のじいちゃん先生が目を細め、奴は照れくさそうな妙な顔で笑った。
* * *
放課後、僕は丸缶を手に、古文の野村先生のところへ行った。
「先生。ちょっと質問があって。……勉強のことじゃないんですが」
「うん、歓迎だよ」
先生の目は相変わらず細い。
僕は、カバンから丸缶……タバコ缶を出した。銘柄「飛鳥」。
「実は、亡くなった祖父の学生時代の日記が一冊だけ出てきたんです、捨て損ねたらしくて。そこにあすかさんって女の人の名前がでてきちゃって。祖母がその、ちょっとしょんぼりしちゃってて」
「ほう」
「この缶も形見なんですけど、同じ名前だから吸い続けてたんじゃないかって」
先生は僕が渡した缶を開け、注意深く中を見た。
「先生、あの、実は先生の名前も日記に出てて。もし何かご存知だったら、聞かせてくれませんか。じいちゃん無口で、そういうこと言わなかったから、だれもわからなくて」
と、先生が静かに話しだした。
「あすかは僕の妻なんだ。君のおじいさんは大学の先輩でね、彼女を取り合った仲だった。けど、そのずっと前からおじいさんはヘビースモーカーで、『飛鳥』はトレードマークだったよ。……それに、見てごらん」
そういって、先生は缶から国鉄の切符を取り出した。北海道の、幸福駅。
「妻は寒いのが苦手で、北海道には渡った事がない。これはきっと、おじいさんがおばあさんと旅行に行ったときのものじゃないかい」
どきんとした。
「おばあさんに見せてあげるといい。きっとその時の話をしてくれるよ」
なんだか走り出したいようで、缶を受け取りながら僕は頭を下げた。
065:冬の雀
「『はしびろこう』が います。 かおは こわいけど やさしいよ。 おかしが ほしい こは のっく してね」
ひらがなの読めるシオンちゃんが、アパートのドアの貼り紙を大声で読み上げた。
ちょっと黙ったあと、ぼくらは顔を見合わせ、こそこそ話し合った。
お菓子がもらえるのはわかったけど、「はしびろこう」って何だ? 「はしびろ こう」さんの名前じゃないかな。少なくとも、顔は怖いんだよね。でも優しいって。
さんざためらったけど、お菓子は欲しい。なにせハロウィンだ。みんなでかぶってきたカボチャのお面だって、この日のために幼稚園で作ったんだし。
結局、じゃんけんで負けたジンくんがノック係になった。怖がりのジンくんは何度も何度も僕らのほうを見たけど誰も助けには行かず、やっと叩いた音は僕らでも聞き落としそうなほど小さかった。
「どなたですか?」
男の人の声がした。別に怖くない、普通の声だ。ほっとした僕らは、大きな声でいつもの文句を言った。
「お菓子くれなきゃ、いたずらするぞ!」
ちょっと間が空いて、鍵が外れる音がした。ドアノブが回って、ゆっくりドアが開く。
ぬっと出てきた顔は……
あ、おばけ。
思った瞬間、僕ら全員が大声で泣いていた。泣いている自分を置いておいて、もう一人の自分が、出てきた相手をまじまじと観察している。
これは顔なんだろうか。ものすごく大きくてごつい鼻のようなものがぶら下がっているように見えるけど、どこが何なのかさっぱり分からない。ただ、やたらおっかない目だけはわかった。
やっぱり本物のおばけだ。
と、泣いている僕らを見下ろしていたそいつはくるりと背中を向け、しゃがんでめそめそやりはじめた。
何だよ。なんでお前が泣くんだ。泣きたいのはこっちだよ、泣いてるけど。
「お前……お前、何者だ!」
いち早く元気を取り戻したらしいマモルが怒鳴った。何かと兄貴分ぶるけど、こういうときは頼りになる。
その声で、そいつがまたくるりとこちらを向いた。なんだ、うそ泣きじゃないか。
「おれか。おれは、鳥だ」
「鳥?」
「鳥だ。『はしびろこう』という鳥だ」
はしびろこうは鳥の名前か。そういえば、長い「鼻」がくちばしに見えてきた。
「お前ら、お菓子をもらいに来たのか」
そうだ、お菓子だ。よく見ると、そいつは右手にチロルチョコの袋を持っている。
「お菓子、あげるから、一列並べ。順番だぞ」
僕らはちょっとおっかなびっくり列になって、持ってきた手提げを出した。はしびろこうはチョコを五個ずつ入れてくれた。なんだ、いいやつだな。泣いちゃって悪かったかな。
先生に教わったとおり大声でお礼を言って、僕らが帰ろうとしたとき。
「おい、ちょっとまて」
なんと、背後から声がかかった。横でジン君がびくっとした。何だろう、お礼は言ったのにな。
「おれにも、お菓子をくれ」
へ? 僕らは顔を見合わせた。
だってハロウィンだよ。子供がおばけの役になって、お菓子をもらうんだ。
でもこいつはおばけだから、お菓子を取っていくのかな。でもこいつは鳥だから、おばけじゃないよな。それじゃあ……
「おれは、鳥の国から来た。鳥の国にはハロウィンがなくて、誰もおれにお菓子をくれない。おれもお菓子をもらってみたい」
ふーん。
僕らはもう一度顔を見合わせた。ハロウィンがないのか。鳥だからしょうがないんじゃないかな。
でも、あげるばっかりじゃ、確かに可哀想な気もする。
「これ、あげる」
ジンくんが、他の家でもらったパウンドケーキを出した。つられるようにみんな袋をごそごそしてお菓子を探した。僕はちょっと悩んだけど、おまけつきのを出した。
「待て、待て。そんなにいっぱい食えないから、ちっちゃいのでいい。見せてみろ」
はしびろこうが手をぶんぶん振り、マモルの手提げを覗いた。マモルが手提げを差し出してやると、奴はお菓子を返し、飴玉を一個だけ出した。
「これ。これでいい。これくらいのやつだ」
ジンくんとシオンちゃんは代わりにビスコをあげた。僕は五円チョコをあげた。
はしびろこうにお菓子を渡すとき、ちょっとへんな匂いがした。
そんなに嫌な匂いじゃない。どっかでかいだことがあるな。どこだっけかな? 考えていると、はしびろこうがまた声をかけてきた。
「おまえら、いい子だから、もう一個お菓子をやる」
見ると、さっきとは違う袋を持っている。中から出したのは大きなペロペロキャンディ四本。
マンガにしか出てこないやつだ。僕らは興奮しながら手提げを大きく開け、それが入っていくのをじっと見ていた。
やっぱり、いいやつじゃないか。
* * *
家に帰ると、ママに笑われた。鳥がお菓子をくれるなんてうそだ、からかわれたんだと言うんだ。鳥の国の話もしたけど、信じてくれなかった。
僕はぷりぷりしながら、ペロペロキャンディを眺めた。眺めているうち、なんだか悪くなった。
こんな大きなお菓子をくれたのに、五円チョコじゃ可哀想だな。やっぱりおまけつきのをあげよう。
ママに話をすると、一緒に来てくれることになった。はしびろこうにお礼を言いたいんだって。
さっきのアパートのドアをノックすると、出てきたのは人間の、男の人だった。
「ごめんね。はしびろこう、さっき帰っちゃったんだ。お菓子ありがとうって」
そっか。
しょんぼりした僕に、男の人はしゃがんで言った。なぜか、さっきのあの匂いがした。
「はしびろこう、子供のころ、ハロウィンがなかったから、嬉しかったっていってたよ」
帰りがけ、ママが丁寧にお辞儀して、はしびろこうによろしくって言った。
男の人は分かりましたと言って、なぜだかものすごくにっこりした。
* * *
「よかったわね、鳥さんに喜んでもらえて」
帰り道、ママは言った。
「来年も会えるといいわね」
僕もそう思う。来年こそ、大きなお菓子をあげるんだ。
そうそう、あの匂い、何だか思い出した。兄ちゃんの自転車の、ゴムタイヤに似てる。