小噺帖

極小一次創作。よそで作った三題噺や都々逸の一時的集積所。
極小一次創作。よそで作った三題噺や都々逸の一時的集積所。
秘密基地への旅

秘密基地への旅

 夜、音屋へ行く。入口で年齢性別不詳の店主からヘッドフォンとコーヒーカップを受け取る。奥でコーヒーメーカーが唸る店は小さいが、他に何も置かれていないので狭く感じない。
 両側の壁一面に空けられたイヤホンジャックを目でなぞる。何千個あるか知れないジャックからは、それぞれ違う音がする。ジャズの鳴る雨の喫茶店。熱帯雨林に降る雨。砂漠のトカゲの足音。南米の路上のサルサ。恒星のいろどりを再現したアサバスカインディアンの歌。
 律儀に端から一つずつ試していた頃もあったが、どのみちコーヒーを取る拍子に見失うので早晩やめにした。
 床すれすれのジャックのひとつへ適当に端子を挿す。こおう、こおうう、と深く籠るような音。
 ――何すか、この音。
 ――ん、ダイオウイカ。太平洋のね、水深六百メートルくらいかな? 水吹いて泳いでる音。
 音を聴きもせず、店主は事もなげに答える。たぶんこの店のジャックを全部覚えているのだ。
 床暖房のきいたフローリングに座り込み、熱いコーヒーをすすりながら目を閉じる。イカの呼吸音の中にヒレ音が聴こえないか耳を澄ます。遠くでしゅっと鳴るのは他の魚か仲間のイカか。

 店内を回り、三つ、四つ、ジャックを替える。真冬の灯台に押し寄せる波頭、未知の鉱石に滴る水滴、フラメンコの鋭い靴音。なるたけあちこち歩いて音を探しな、とは店主の弁だ。人間、ほっといたら手の届く範囲でしか聴かなくなるんだから。
 それに倣い、脚立を借りて天井近くのジャックを選んだ。犬のような遠吠えがいくつも聴こえる。
 ――北極の狼たちだよ。狼犬が二匹いるのが分かるかい。
 そういう店主が自分のヘッドフォンを出し、端子をこちらに示した。私はヘッドフォンを外し、店主の座る車椅子を受付から動かす。促されるまま右側の壁に寄せ、店主が指示した天井近くのジャックに端子を挿してやる。
 ――何の音すか。
 ――渋谷のスクランブル交差点。今年は渡ってみたいもんだね。
 店の代金は音で支払うこともできるから、帰り際に店主へ声をかけた。
 ――うちの地元の唐揚げ屋、いい音するんすよ。
 ――ああ、あれは腹が減るね。こないだ空いたジャックに入れとこう。
 ――どこに入るんすか。
 ――自分で探しな。
 ――そこにあった音、どうなったんすか。
 ――それも自分で探しな。
 探せた試しはない。
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