陽気はすっかり春めいて、琵琶を抱えた謡唄いの「先生」は、市の片隅で花の謡を唄い始める。誰もが知る謡も、先生の口から聴くと格別だと皆が口をそろえる。
霞の中の山桜。足元を彩る菫。生まれつき盲目の先生は、自分の目では見えないはずのそれらを楽しげに唄う。
すると立ち止まって聴く者たちは、足裏に柔らかな新芽を感じ、指先に枝もたわわな花房を感じ、頬の産毛に軽やかな風を感じる。吸った息に匂う緑は舌先に滴るような湿気を含み、遠くにヒバリの声がしたようにも思われる。若々しい万物の命が身の周りにひしめく気配、それが唄の聞こえるあいだじゅう続く。
その帰途。夜にしては人が多いようだと訝る先生は、そのじつ百鬼夜行の真っ只中に踏み込んでいることにまだ気付いていない。しかし普段ならそんな人間を生かしておかぬはずの魍魎共は、不審げに遠巻きにして歩き続けるばかりだ。それも道理、先生が戯れに口ずさむのは、かつて暮らした妖怪郷の謠だ。あやかしの間でも今は失われたはずの、一人で三つの声を重ねる謡法を、ヒトの身ながら小声で響かせ、魑魅魍魎を引き連れて先生はゆく。