夜、カーテンを閉め切り照明を落とし、旧い角灯に火を入れる。途端私の姿は消え、入れ替りに無数の影が壁に踊る。ヒトの影だけでない、ネコやトリ、巨大なサカナ、目に見えぬほどのムシも。彼岸に渡れぬ幽霊を角灯に招き、灯が落ちるまで躍らせてやる。その間私はどこでもない境目で雨音を聴いている。
ふたつの国は国境を高い石壁で隔てていた。いつからか、なぜか、誰も知らないが、どちらの国もお互いが嫌いだった。壁は目の届く限り延々と延び、いっさいの行き来を遮っていた。
その壁には小さなドアが造られている。最初に気づいた誰かの名は分からない。ごくごく親しい人の間でそっと伝わってきたからだ。ともかくドアは大人が腰を屈めてやっと通れる小ささで、落書きの中に巧みに隠されていた。
ドアの向こうは相手の国でなく、細長い庭だった。実は壁は二重になっており、そのあいだに一つの庭が国境の長さだけずっと続いていたのだ。庭を訪れた人は咲き誇るバラのアーチをくぐり、木漏れ日の下に憩い、まれに誰かに出会えばそっと会釈した。そしてごくごく親しい人にだけ秘密を明かし、誰にも言わぬようにと口止めした。
もしや相手の国にも同じドアがあり、今すれ違った人は敵かも。いや、ふたつの国の者たち全員がこの庭を知っているのかも。と、実は誰もが思っているが、誰も口には出さない。
片方の国の大統領ともう片方の国の将軍は、くたびれたシャツを着て庭のベンチで水筒のお茶を交換する仲だ。お互い、相手の名は知らない。
沼の水を飲むと山に取られる。噂を面白半分で試したが何も起きず、拍子抜けして戻ると村は廃墟と化していた。スマホは不通、住民?も得体の知れぬ服で顔貌も言葉も歪んでいる。逃げ戻った山中で迷い込んだ集落の人々はまともだが全員が水を飲んだとか。ここ以外の全人類には僕らが歪んで見えるそうだ。
バイト先のカフェでへまをした。置いたコーヒーがお客さんの服に跳ねたのだ。よりによって真っ白なコットンシャツで、点々と飛んだ茶色は慌てて持ってきたシミ取り剤より手強かった。けれど平謝りの僕に、お客のおばあちゃんはあらいいのよ汚れてもいい服なんだからと笑い、クリーニング代をどうしても受け取らない。おばあちゃんのコーヒー代を無料にした店長に、あんなお客様ばっかりじゃないからねと釘を刺された、その数日後。同じ席に白いシャツが、続いてあのおばあちゃんが目に入った。同じようにオーダーされたコーヒーをさすがに震える手で運んでいった僕は、おばあちゃんのシャツにふと目を止めた。この前のと違って点々と小さな花の刺繍が……
「気がついた? これ」
おばあちゃんが笑う。コーヒー染みを隠して刺繍の花が咲いている。へええと声を出した僕に、おばあちゃんはいたずらっぽく声を潜めてシャツのあちこちを指差した。
「ミートソースに、お醤油に、泥」
確かに、その箇所の刺繍はこの間も見た気がする。
「だからね、ほんとは汚れるのちょっと楽しみなの」
おばあちゃんの囁きは世界の秘密を打ち明けるような声だ。
特訓の甲斐ありついに幽霊屋敷の主に三勝したが、彼は成仏どころか好敵手との別れをやたら悲しむ。仕方なく再訪を約して帰ったその日から烏や黒猫が催促の手紙を付けて続々来訪、観念して友人一同引き連れ流行りのボードゲームを持参したところ大喜びされ、徹夜勝負となったがテキは幽霊、眠気が無い。
嵐の夜に迷い込んだ荒野の幽霊屋敷で望外な歓待を受けたが、気難しそうな老主人はチェスで三度勝たねば帰さないという。受けた勝負で手も足も出ず、このまま地縛霊化を覚悟したが、主人は意外にも手取り足取り教えてくれる。老執事囁いて曰く、主人は無類のゲーム好きだが訪う客とて無く成仏できぬ由。