死んだ母親へ会いたさに少年の背はどんどん伸びた。村じゅうの大人も家々の屋根も追い越し、遂に雲の上へすぽんと頭が出た。そこは眩いばかり真っ青が広がるだけの世界で、下を向いても雲に阻まれ村は見えない。彼の涙は下界で雨となって植物を巨大に育て、親友のジャックは彼を目指して豆の木を登る。
山奥の叔父と狐が帰るのを見送る。猫じゃ猫じゃと仰言いますが…ほろ酔いの叔父が踊る。夜風は頬に快く、満月が綺麗だ。婚約者の失踪に周囲が沈む中、お前は優しいから良い人に出逢えるよと叔父は言う。私の本命は叔父だ、それも狐と幸せで居る叔父だ。オッチョコチョイのチョイ、宵闇に手指が翻った。
昔の部下が息を吹き返した。心を読み舌打ちする。女共め。全員潰そうと部下の顔面を掴む、その手の下で奴が笑った。こいつ、こんな貌が出来たか。だが遅く、流し込んだ能力は狐妻を通じ天ガ下の狐全てに分散されていた。総大将ハ狐ヲ襲フ可カラ不。掟を破った報いに狐達の能力がどっと流れ込んでくる。
狐なので連れ合いに何かあれば判る。どっと脳に流れ込むのは良人の苦痛だ。ああ、あの人が殺される。床でのた打ちながら声を上げると、自分を抱き上げる腕。良人の姪だ。途端じわっと楽になった。まさか、これが彼女の能力か。考える間もなくその能力をそのまま良人に流した。どうか間に合いますよう。
昔の部下と呑む。思い詰めた顔で、口を付けた酒が減らない。こいつの能力は人間の中でも強く、その姪を娶ってこいつも配下にすれば狐と人間双方を支配出来る。が、大戦中死ぬ程上下関係を叩き込んだにも関わらず姪のために逆らう気らしい。話し出そうとした部下の頭がぐらっと揺れる。毒酒だ、莫迦め。
山奥の叔父が私の婚礼で家へ来た。狐も一緒で、婆やは鼠を捕るならと鷹揚だ。明後日に宴を控えた夜、叔父に呼ばれた。今から出かける、式までに戻らない時はこの手紙を兄に渡してくれ。決して狐の側を離れてはいけないよ。叔父はそのままふいと家を出、狐がじっと見送る夜道に金木犀が濃く匂っている。
老兵の話では、昔の政変で失脚した将軍の愛妾の少女が捕まり例の物置で将軍の居所を尋問された。反乱側は新雪の蒼い陰でもって染めた特注の拷問服を彼女に着せたが、彼女が文盲の唖者と判ったのは凍死後だった。猫のように丸まって寄り添う少女の体の冷たさに顔色も変えず、少年兵は文字を教えている。
猟師が縁側で鉄砲の手入れをしていると、庭先へ訪う者がある。
顔をあげると見知らぬ若者が立っていた。この奥の櫟の下に住む者ですと言う言葉に思い当たるものがあった。狐御前とあだ名の変わり者が住まう小屋だ。大小の狐がしきりと家へ出入りするのを見たという話もいくつかあり、彼もあるいは同類かと疑う者は多かった。
そろりと眉に唾して顔を盗み見てみたが、質素なれど人品卑しからず、物腰もやわらかである。いかな奇人とてそうそう悪さもすまいと、猟師は老妻に茶を頼んで招き入れた。
恭しく三つ指ついて彼のいうには、
――明日の午、この裏の山に日なた雨が降ります。わたくしの義理の妹の嫁入り行列でして、一刻足らずで止みましょうから、その間は何卒お情けを賜りたく。
いかさま名高い狐御前。キの字か、はたまた誠に狐のキかと訝しんだが、若者のそぶりはいかにも必死で、髭やら尻尾の覗く風もない。
――わたくし、巷では狐御前と呼ばれておりますようなれど、物の怪の類いではございません。たまさか狐の隣に宿借りし、明け暮れ共にしておるだけでございます。狐も近頃の人の言葉は解りませず、やむなくわたくしに頼んでまいった次第にて、何卒。
と畳へ頭をすりつける若者へ、煙草の煙を大きく吐いて猟師がいうには、
――明日はこの村も祝言で、わしら猟師も一日鉄砲を持たぬ。嘉き日はお互い様、裏山には屹度入らぬよう、皆に申し伝えようほどに、安心めされよ。
ぱっと愁眉を開いた若者は幾度も頭を下げ、丸々膨れたあけびの実をどっさり置いて去って行った。
あくる日は婚礼とて村中総出で宴たけなわの頃、どこからかさあっと雨音。
見ればさんさんと照り渡る中、裏手の山にだけ雲がかかり、白糸の雨足が光っている。
ははあ、鉄砲撃ちの爺様の言うとおり今日は狐もお嫁入りかと皆がゆかしく眺める横で、雨雲を睨めつける若衆いくたりか。剣呑な目も道理、振舞い酒がしたたか回った上に花嫁御寮は村一番の器量よし。負けて悔しい花いちもんめ、代わりに狐の嫁を頂こうとばかり、浮き立つ村を皆で抜け出し、鉄砲片手に裏山へ分け入った。
だんと山際に銃声。
さっと宴座が凍りつく。今日は殺生禁止のはずと辺りを見回せば、血気ざかりの若者の姿が残らずない。
すわとばかりに男総出で裏山へ入れば、青ざめて口も利けない若衆の足元、煙のくすぶる鉄砲と、仰向けに倒れた狐御前。
南無三、遅れた。 歯を噛むばかりの一座の前へ見慣れぬ若い娘が飛び出し、動かぬ狐御前に取りすがった。
まるで表情のない顔とはうらはらの身を裂くような泣き声で、一座は彼女が狐と知り、狐御前の妻と察した。
――良人は妹をかばって撃たれました。わたくしども狐とつながる唯一人の人間を亡くしましたうえは、向後狐はこの地を離れ、二度と姿を見せますまい。
娘の言葉と共に、辺りの藪からいくたりかの男が現れて狐御前を担ぎ去り、そのまま戻らなかった。
細い雨はその日いっぱい裏山を濡らし続けた。
爾来、その地で狐を見ることは絶えて無い。
狐御前が持ってきたあけびの実はとろけるように甘かったが、村人たちがどれだけ山を歩いてもあれほどの実にはついぞ行き当たらず、その場所は狐しか知らないに違いないと皆々口を揃えて嘆息した由である。
紫式部は嘘ばかり書いたので閻魔大王の裁きで地獄に落ちた。当然〆切地獄である。常々正直ばかりで嘘に飢えた閻魔大王はこうして作家を地獄に呼んでは物語を作らせ、浄玻璃鏡に映して楽しんでいる。倫理に厳しいが作家の待遇はホワイトで、亡者達への取材も許可されているため作家の評判はそこそこだ。