小噺帖

極小一次創作。よそで作った三題噺や都々逸の一時的集積所。
極小一次創作。よそで作った三題噺や都々逸の一時的集積所。
三題噺

三題噺

カーテン/餌付け/迷宮

巨大なシャチが夜のビル街を回遊する。ひとけのない都市は石の灰色で、シャチが時折覗く窓はみな暗い。ビルの谷底にぽつんと点るのは旧い家の灯で、暮らすのはおばあちゃん一人だ。おばあちゃんが猫三匹を寝かしつける布団の横の柱には越冬中のテントウムシたちが固まり、猫と同じ枯葉の夢を見ている。

深海/窓際/災い転じて

シャチを知っているのは猫とテントウムシの他はおばあちゃんだけで、おばあちゃんはシャチを人間の次の世のさきぶれと考えている。ほどなく、おばあちゃんが電気を消した屋根の上をシャチが泰然と行き過ぎる。じき暖かくなればおばあちゃんはテントウムシたちを窓から日なたの側に出してやるつもりだ。
お題【クリぼっち】からの【新年】 ※蔵出し加筆

お題【クリぼっち】からの【新年】 ※蔵出し加筆

 気分だけでもと、ドアに安物のクリスマスオーナメントを飾った数日後、木馬の模型が取れていた。捨てるのも気の毒で拾うとソレがしゃべり出し、自分を正月飾りに使えと言う。ちょうど注連飾りもないし、好都合とばかりにドアに吊るしてやると、左向きにしろと注文がついた。縁起物だと言うので調べたら本当らしく、左馬という記述があった。
 大晦日の夜、あの馬を先頭に世界中の馬という馬が左へ左へ地球を駆ける夢を見た。この国を筆頭に世界へ新しい年を告げに行ったのだろう、目覚めるとドアの馬は影も形もなかった。が、耳の奥で微かに轟く馬蹄の音にその一年じゅう駆り立てられ、今こうして世界を経巡りながら馬の写真を撮り続けている。
金魚王国 ※蔵出し

金魚王国 ※蔵出し



 引っ越し先が幽霊アパートだと知ったのは入居初日の夜だった。
 手伝ってくれた友人たちも帰ってしまい、荷解きの済んでいない段ボールの隙間に寝ころんだ三メートル上。天井近くに丸い小さな影が幾つも幾つもゆらゆら動いていた。
 蛍光灯のカサの汚れか何かだろうかと思った。が、その割に漂う影の動きは不規則で、何より蛍光灯はぴくりとも動いていない。
 目の錯覚ということにして寝袋を広げ、灯りを消した。
 途端、暗い天井にはっきりと揺れる水紋。
 そこをちらちら行き交うあの影は紛れもない、魚影だ。いや、それはもう影でなく、はっきりと魚の姿をとって部屋じゅうを泳ぎ交っている。
 引っ越し疲れで夢でも見ているな。そう思いたかったのに、眼前の光景も自分の意識もあまりに冴えていた。それでもなお事態を借じられず、傍若無人に顔の辺りに寄ってきた一匹に手を伸ばしてみる。
 触れるかと思った指が空を切った。
 魚が避けたのではない。確かにこの指が、魚の姿をすり抜けたのだ。
 夢だな。
 そう思って目を閉じた。いや、意識が遠いたのかもしれない。
 次に目を覚ますと、もう部屋は明るくなっていた。
 軽い筋肉痛に顔をしかめながら起きあがった時には脳内からは無論、昨夜の怪現象は残らず消し飛んでいた。
 部屋中の段ボールの上に眠りの格好で鎮座する、三十匹ばかりの赤い金魚を目にするまでは。



 ネットの生物図鑑で調べたころ、ピンポンパールという種類らしい。小さなボールさながらの丸い魚体を見れば言い得て妙だ。
 が、それが大挙して部屋中を飛び回っているともなれば話は別である。ディスプレイからちらりと目を上げると、ちょうどその一匹が視界を横切っていった。新参者にも慣れたのか、憎らしいほどの落ち着きようである。
 引っ越しの翌朝、九時になるのを待って駆け込んだ管理室で、渋る大家から聞き出したところによると、以前の住人が金魚マニアだったそうだ。堅い勤めで特に問題もない人物だったが、ある晩寝タバコで火事を出した。本人始め入居者一同は無事だったものの部屋は全焼、ペットの金魚三十匹が哀れにも丸茹でになったらしい。
 その人が払ってったお金で建物直して、やれやれと思ったんだけどねえ。ほら人間の幽霊じゃなし、いいでしょ? 何するわけでもないしさ。
 どうやら押し切るつりらしい大家にそれ以上逆らわず、速やかに退散した。
 実害は確かにない。それはその通りなのだ。そして無害となると、再度の引っ越しはとてつもなく、とてつもなく面倒くさい。
 現金なもので、そう割り切ってしまうと気が大きくなり、同居生活を続けるつもりで部屋に戻って今に至る次第である。
 まあ、いい。金魚の飛ぶ部屋なぞ、考えようによっては雅びなものだ。
 と思った折も折、別の一匹がゆっくりと天井から降りてきた。それが何やら、長々と黒い物を曳いている。
 その正体を瞬時に悟り、硬直した。
 嫌だ。認めたくない。幽霊がウンコなんて反則じゃないか。だいいち風流をどうしてくれるのだ。このやり場のない風流を。
 頭を抱えたその目の前で、黒い物がふっつり切れて畳に舞い降りた。



 帰宅後にまずする事は、室内ホウキ片手に部屋中を掃き回った後でベランダのガラス戸を開ける事である。降ろうが照ろうが腹が減ろうが有無を言わさぬ日課だ。
 言わずもがな、金魚どもが出した物の後始末である。餌などとうに要らない身分のくせに出す物は毎日出す。ひと日の終わりに帰ってみれば、それが畳の上に三十匹分だ。
 無論ご本尊が幽霊なだけに、出てきたフンも臭いもなければ触れもしない。
 が、いい気もしない。どういう仕組みか知らないが、非実在汚物も風に当たれば(水に漂う姿さながら)飛んでくれ、この部屋から外へ出れば跡形もなく消えてくれる。そこで家主みずから疲れた体にむち打って、日々ホウキを振り回しているわけである。
 そして当の金魚どもは相変わらずのポーカーフェイス、ホウキをするりするりとかわしながら、片づいた畳の上にまた新しい堆積物を作ってくれる。いっそまとめて押入に追いやろうかとも思ったが、その後の押入の光景が想像するだに恐ろしく、いまだ実行に移せずにいる。
 それはまだいい。
 曲がりなりにも掃除を終え、今度はこちらが用を足そうとばかり開いたトイレのドアに、なぜ毎度連中までが飛び込んでくるのか。
 異種族への単純な好奇心か。見られて掃かれた事を根に持ってでもいるのか。便器周辺の上空に群がる六十対の目をトイレの外に追い出すまで、日々の安息は訪れないのである。



 家の中で、金魚どもが寄りつかない場所が一カ所だけある。台所だ。
 初日に台所で旧式ガスレンジのツマミをひねってガチガチ言わせたとたん、その辺の金魚がみな一目散に逃げ散っていった。確かに不慮の火事で非業の死を遂げたとあっては、火のそばになど寄りたくもないのが本音だろう。
 が、こちらは火がなければ暮らしていけない身なので、折衷案として火を点ける前は(近所迷惑にならない程度に)鍋を叩いて教えてやることにはしている。それを聞きつけ、金魚どもが隣室へ避難するという寸法だ。
 と言っても丸い魚体のピンポンパールのこと、和金などより泳ぎはよほど下手なようで、ボールのような尻を降りながらよちよち離れていく。その姿は正直ずいぶんユーモラスで、毎度笑えもし、気の毒にもなる。なんだかんだ言って、こちらも別にこの同居人と揉めたい訳ではないのだ。
 だからあれは悪かった。反省している。
 このアパートは公園の裏手にあり、網戸を閉めていても夏場は蚊がすごい。だからついうっかり、台所で火をつけた蚊取り線香を部屋に持ち込んでしまったのだ。
 当然金魚たちのパニックはすさまじく、なんと最後にはあの台所に逃げ込んでしばらく出てこなかった。
 わざとではない。過失だ。大変申し訳なかった。
 だから深夜、人が寝ているその胸の上に三十匹で乗るのはもう勘弁していただきたいのだ。夏の夜に幽霊に祟られる嫌さ寝苦しさを、この金魚どもは間違いなく理解している。



 今さら信憑性に欠けるのは承知だが、金魚は好きだ。生き物としてよりは(むろんそれも嫌いではないが)、意匠としての金魚が好きなのだ。レトロ雑貨屋でよく目にするあの金魚柄のブリキのバケツなど、幼年期よりの郷愁をかきたててやまない。
 とはいえこのアパートに来て以来、その趣味を表に出すのは何となく控えている。本物の金魚であるところの同居人(同居魚)を前にすると、やはり何とはなしに気恥ずかしいものだ。
 しかしここ数日続いた真夏の日差しに心を乱され、ついに引っ越し以来隠し通していた押入最奥の段ボールの封印を解くにいたったわけである。が、やはり金魚の前で金魚柄など本職のプロレスラーの前におもちゃの覆面姿で出ていくようなものだ。
 というわけで、ソレを箱から出した瞬間から丸々十秒、顔を上げられなかった。
 が――予想もしない、妙な静けさ。顔を上げてみると、金魚が一匹残らず消えていた。いや、部屋の中のここから一番遠い角の天井すれすれに三十匹全員が押し固まり、じっとこちらを見下ろしている。
 連中の目に、コレは何に見えただろうか。この金魚型ショルダーバッグは。これは肩紐を取っ払えば全長三十センチの金魚そのものの姿を模している。天敵の大型魚類にでも見えるに相違ない。また同居魚に罪深いことをしたか。先ほどとは別の気まずさに上目遣いで連中を見上げる。
 その目の前で、バッグがぷかりと宙に浮いた。
 今度はこちらが固まる番だったが、それにはお構いなしにゆらりと尾ひれを揺らし、バッグは金魚どもの方へ泳いでゆく。その動きに天井の金魚はぱっと散ったが、やがて恐る恐るその周りへ集まってゆく。金魚なら何だっていいのか、この部屋は。人間様の脱力に反比例する格好で、大小の金魚は今や仲睦まじく泳ぎ戯れていた。その一匹が眼前についと出てきた。見ると――背後に長々と黒い紐を垂らしている。本能的に体が動いた。我ながら珍妙な悲鳴とともに、金魚ごとそれを払おうと手を振る。
 途端、ジッパーの開く鋭い音。決いでそのフンの主含めピンポンパール全員がわっとバッグに殺到し、その背の開け口から中に飛び込んだ。三十匹を腹に納めた大金魚は悠然と部屋の隅へ泳ぎ、じっとこちらを見下ろしている。無生物魚類のはずが、その目に非難の色を感じるのは気のせいだろうか。
 どうやらこちらをよそに、何らかの密約が成立したらしい。



 互いに社会人ということもあり、友人たちを部屋に招いたことは引っ越し以来まだない。普通は物足りないものだが、この状況になってみると不幸とも言いかねた。何せ同居人が同居人である。いや同居魚どもである。言葉を尽くしたところで説明のしようもないが、そうかと言っていきなり帰宅直後のフン掃除姿を見られたくもない。
 しかしその効果が及ぶのは部屋の中だけらしく、日曜の外出先恐る恐る持ち出してみた金魚バッグは(外見以外は)何の変哲もないただのバッグと化していた。
 やはり地縛霊のなすこと、その場所を離れてしまえば霊験もへったくれもないのか。すっかり大人しくなったバッグをお供に、友人たちと街遊びなどしゃれ込んでいた最中である。
 ぐいとバッグの肩紐を引かれた。
 ひったくりか。慌てて紐を押さえたがびくともしない。最後尾だったのが災いし、談笑する友人たちは異変に気づかないまま遠ざかってゆく。声を出すのも忘れ、必死で逆らいながら後ろを向いた――先には、誰もいなかった。
 自力で浮きながら背後のショーウィンドー目指して一心に宙を泳ぐ、我が大金魚バッグの他は。
 ガラスの中にはずらり、金魚柄の財布やら手ぬぐいやら団扇やら。
 あの、頼むからもう勘弁してください。これ以上金魚増やそうとしないでください。今アパートにあなたのお仲間、あなた含めて三十一匹ですよ三十一匹。
 それより何より、公衆の面前ではっちゃけないでください。お願いですから持ち主の社会的立場も考えてやってください。もうどっちが持ち主か分からなくなってきましたが。
 第一あなた、なんであの部屋から出て余裕で身動き可能なんでしょうか。
 明らかに暑さ以外の汗にぼやける視界の向こうで、友人たちがようやく――幸か不幸か――足を止めた。



 うだる日は金魚も昼寝である。
 夏の午後、畳のそこここに降りたままじっと動かない金魚、三十匹(プラス一匹)の姿は、日ごろ振り回されっぱなしの実状をさっ引いてなおどこか風流を感じさせた。
 昔も今も、夏の金魚は見た目によい。こんな安アパートでも、どこからか涼風がくるようではないか……
 不意に背後を抜けた冷たい風に、跳ね起きて台所へ駆け込んだ。煌々と照る灯り。見れば大金魚バッグが冷蔵庫の扉を押し開け、中に半身を突っ込んでいる。
 電気代! 一声叫び、肩紐を掴んで引きずり出そうとする傍から、同じく目を覚ましたピンポンパールどもが横をすり抜け、我先に飛び込もうとする。それらを全部追い散らし、扉を閉めてガムテープで固く固く封をすると、この暑いのに無駄な大汗がどうと吹き出してきた。油断も隙もない。誰が少ない給料を工面して金を払っていると思っているのか。
 げっそりしながら部屋に戻ると、床にいたはずの金魚どもの姿がない。何の気なしに天井を見上げ、ぎょっとした。
 金魚三十一匹が、上下逆さに天井に張り付いていた。
 いや、魚類が腹を上にするのは死のポーズだ。冷蔵庫を閉められたのを根に持って、生意気にもダイ・インで来たか。
 にらみ合い。
 数秒後、黙って冷房を入れた。
 間違っても無言の抗議に屈したのではない。ピンポンパールどもの死因を思い出したせいだ。やがておんぼろの機械音とともに吹き出してきた本物の涼風に、金魚全員がぱっと活気づき、一斉に部屋を泳ぎ始めた。遺憾ながら、悪くない眺めだった。
 部屋中に漂うエアコンの雑巾臭を除けば。
 こいつらは気にならないのか。いや、そもそも魚の水槽のあの臭いを考えれば気にしてなどいまい。
 まあいい。ペットの健康に気を配るのは人間様の責務である。人間様の。
 心中で自分に言い聞かせ、自らがこの室内の絶対的少数民族である現実を脳裏から追い出すことにした。



 友人一同でハワイ行きの計画を立てた訳だが、旅行代理店からパンフレットを集めてきたところでふと嫌な予感に襲われた。どの表紙にも申し合わせたように青い海、白いビーチ。中身も当然ながら、澄み切った水の写真が目白押しである。
 予感の出所はもう分かり切っていた。いやしかしまさか。そもそも連中、元は淡水魚だし。内心の不安を打ち清そうとしたがどうしても上手く行かなかった。何と言っても「元」淡水魚なのであって、今は水中にすら棲んでいない奴らだ。
 油断はできない。パンフレットを会社用カバンの奥の奥に押し込み、直前までは平静を装って暮らすことにした。
 だがしかし、その日の夜にうっかり開いた友人からの無題メール。その中身にハワイの文字が躍っているのを目にした瞬間、致命的ミスを悔いた。
 大体において、陸上生活をものともしない魚類が余裕で人語を解したとしても何ら不思議はないのである。
 ヤシの木の絵文字を使ってまで本文に凝るならなぜ件名でそれと知らせる気遣いを見せてくれないのだ。事情を知らない友人を(理不尽に)恨んだがもう遅く、目の前の座卓にはメールを覗き見たと思しき三十匹がずらり居並び、膝の上には大金魚がずしりと重い。
 この連中相手ではパスポートも検疫も障害にはまさかなるまい。断る理由が見つからず汗の滴る身に三十一対の純粋な視線が痛い。

九 

 七時間のフライトを終えた飛行機は定刻通りホノルル空港に降り、憧れの南国ハワイである。
 なのに浮き立つ気分は肩から下がる一個余計なバッグに吸い取られていくばかりだ。よっぽどお気に入りなんだねーその金魚。何も知らぬ友人一同に笑顔で言われてはテンションも下がろうというものだ。が、当の重荷は素知らぬ顔でぶらりぶらりと揺れている。
 その腹には人間様の荷物でなく、同胞たる魚類三十匹がやはり素知らぬ顔で収まっている訳だった。
 チェックインを終えてしばらく休憩をとると、後は全員で街へ繰り出すことになっている。軽装ついでに心も身軽になってしまいたく、金魚三十一匹にこっそりと最低限の注意を申し渡した。すなわち「目立つな、迷うな、盗まれるな」。これさえ守れば宿に戻るまで、魚も人も無罪放免である。この金魚ども、おそらく時計を読むなど朝飯前だろう。せいせいして肩から下げ紐を外した。
 途端、まったくノーガード状態からすごい力で紐を引かれた。
 大金魚め、さっそくハッスルか。先日の件が脳裏をよぎり、とっさに手を離した。
 が、肩紐のその先になぜか見知らぬ男がくっついている。スリだ。遅まきながらその瞬間に察したが突然すぎて反応できない。硬直した時――
 金魚の肩紐がバックルから外れた。紐がそのままスリ男の下半身に巻きついてフンドシの要領で締め上げる。悲鳴とともに男が倒れ、床でのたうち回り始めた。応援のつもりか、中から飛び出た三十匹までがその周囲を飛び交っている。
 事態の急変に対応できず立ち尽くしている間にギャラリーが集まってきた。我に返ったときには大金魚はただのバッグの顔で床に転がってい、三十匹の幽霊は当然行方をくらましていた。ゴールドフィッシュゴールドフィッシュと盛んに口走る男の傍らから慌ててバッグを拾い上げ、きびすを返して競歩で逃げ出した。誰かに呼び止められたが曖昧な笑顔とエイゴワカリマセンは日本人のお家芸である。
 いい加減歩いて物陰でジッパーを開くと、そこには消えた三十匹が無事に格納されていた。今度こそと金魚を再放流しようとして、はたと手を止めた。
 もしやこいつらにいてもらった方が安全なのではあるまいか。いや奴ら……もとい御金魚様にご機嫌麗しくあって頂かねばむしろこちらの命が――
 当初とは全く別の方向で芽生えた重大な懸念。背後から友人たちが呼ぶ声はただ耳を素通りしていく。



 恥ずかしながらワイキキビーチに出て初めて、青い海という言葉の意味を実感した。地元日本海の冬の海とは訳が違う、常夏の海である。ビーチパラソルを入念に固定して荷物を置き、「最初は見てるよー」と言ってくれた奇特な友人(女性)一人を残して全員が海に突撃した。
 そう言えばさ、金魚は? 友人(男性)の言葉に一瞬ぎょっとしたが、単にバッグのことを聞かれているにすぎないとすぐ気づいた。ああ、あれ? もちろん置いてきたよ革製だもの。何食わぬ顔で答えた。嘘は言っていない。全員、ホテルの外の物陰から放流してきたのだ。
「だよな、じゃアレはやっぱおもちゃか何かか」
 友人の視線の先を追って、南国の海にも関わらず全身に妙な悪寒が走った。海面からイルカよろしく跳ね上がる赤い何か。いや、マンガか何かの鯛にむしろ似ていた。そしてその周りをちらちら飛んでいる、イチゴのような赤い小さい何か。
 嫌がらせか。自分たちを異郷へ置き去りにした主人への当てつけなのか。だがしかしこちらにも休暇を楽しむ権利はあるではないか。
 それ以前にお前は本革製だ。メンテにいくらかかると……
 頭に血が上った途端、足がつった。
 沈んだのは覚えているが、その先の記憶はない。ただ夢かうつつか、目の前に流れてきた真っ赤な何かを掴んだような気もする。
 気がつくとビーチでひっくり返っていた。
 なんかいきなり沈んだと思ったらすごい高速で泳いできたんだよーとは荷物番の友人の言である。無論身に覚えはない。
 ほうほうの体で部屋に戻るといつ帰ったか、棚の上に大金魚が鎮座していた。中を開けると三十匹が上目遣いにこちらを覗いている。礼など言う気はない。誰のおかげでおぼれかけたと。喉元まで出かかったが、言うのはやめた。借りがないわけではない。
 そしてもう一つ喉元まで出かかった事があるが、やはりやめた。意味がない。
 だが言いたい。心から言いたい。さんざっぱら塩水に漬かっていたはずの本革製大金魚バッグがどうして、色落ちも縮みもなく元のままなのだ。
 日焼けで痛む背に耐えながら金魚どもを睨みつけた。世の中はいつも生者に理不尽である。

十一

 おみやげなら買ってあげます。あげますけど、巨大昆虫標本やらサソリ入り透明樹脂キーホルダーだけは頼むからやめてください。そんなの連れ帰って地獄を見るの、誰だと思ってるんですか。

十二

 定番のマカダミアナッツチョコとパインクッキーを職場にばらまいてしまうと、ハワイ旅行は名実ともに過去となった。金魚どものたっての希望で購入したハイビスカスプリントのカーテンが玄関にお目見えし、連中が時折そこに群がっては南国の余韻に浸っている以外、この部屋も元通りだった(その辺から花の香りが漂ってくるのは断じて気のせいにすぎない)。あとは日常の出番である。
 秋も近づき、朝晩が少しずつ涼しくなってきたある日、ついに毛布を足す決心をして押入を開け、春以来ご無沙汰だった青い一枚を引っ張り出した。一度干しといた方がいいななどと思いながら床に広げると、なぜか金魚どもがその上に乗ってきた。遊びじゃありませんよ遊びじゃ。軽く追っ払おうと手を動かしかけたとき。
 どこからともなく波音。
 見ると、金魚どもが青い毛布の上をイルカよろしく跳ね回っている。まだハワイごっこか。 それはいいがこの音はどこからくるのか。
 そしてその音、もっと言えばそのメロディー(と言えばいいのか)に聞き覚えがあった。ラックの中のヒーリング音響CDに入っている波音にそっくりなのだ。 引っ越してきてから流していないはずなのだが。怪現象に首をひねりながら体のCDを取り出してみる。と、その上にピンポンパールが一匹飛び乗った。
 なぜか、そいつの辺りから例の波音。
 もしやと思って別のCDを出してみる。そこに飛び乗った別の一匹からはJ-POPの女性歌手の歌声。言うまでもなくそのCDの中身だ。もう一枚。もう一枚。何度やっても連中はそのCDの音を正確に流してのけ、部屋の中はちょっとしたセッション状態である。連中まだこんな異能を隠していて、あまつさえ人の居ぬ間に聞き漁っていたのか。こちらの趣味がだだ漏れではないか。
 まあコンポが要らない分便利ではあるかと思いながら次のCDを機械的に取り出す。
 途端、部屋中に流れ出す明るい歌声。
 全身の血が足下に落ちていく錯覚。違う。違うんだこれは友人から預かっただけであって決して本音じゃないんだいえ本当です信じてくださいお願いですお願いです。
 三十一匹の視線が突き刺さってくる。南国から南極へと体感温度の下がった部屋の中、いまだ金魚を乗せたままの「おさかな天国」のCDだけが元気よく歌っている。

十三

 夢の中で踏切の遮断機が降りていくのを見ていた。例のカンカン音が鳴っている。待つうちにそれは次第に大きくなり……
 おかしい。異変に跳ね起きると部屋の窓が真っ赤だった。引きむしる勢いでカーテンを開けると通りを挟んだ向かいの家が夜空に向かって炎を吹き上げている。硬直した横で寝入りばなを叩き起こされた金魚どもが狼狽の体で部屋中を飛び回っていた。
 そうだ、金魚。通帳よりもアルバムよりもなぜか真っ先に浮かんだのはそれだ。見ると、まさに大金魚の背中の開け口に三十匹が殺到している。全員が詰め込まれたのを確認するが早いか大金魚の肩紐をひっつかみ、サンダル履きで表へすっ飛んだ。
 秋の夜の寒さなど全く分からない。同じく駆け出してきた大家と一緒にアパートのドアというドアを片っ端から叩いて大事を知らせた。間もなく辺り一帯は人だかりとなり、何台も駆けつけた消防車の音は耳を割らんばかりである。
 結局二時間ばかりで火は消し止められた。両隣二軒が延焼で焦げたものの、道路を挟んだこちらは無事だった。聞いたところによると、どうやら死人怪我人もないらしい。やがて野次馬が三々五々散り始め、それを期にアパートの住人も解散となった。
 その時になってようやく金魚のことを思い出した。騒動の終わりを知らせてやるつもりで大金魚のジッパーを開く。
 空だった。
 中は空っぽだった。とっさに事態が飲み込めず、街灯の真下に立ってバッグの中をのぞき込む。いない。確かにこの中に入れて連れ出したはずのピンポンパールどもが一匹もいないのだ。
 連れはどこに行った。大金魚をしくつついたが、こちらもぴくりとも動かない、ただのバッグに戻っていた。
 顔の筋肉が妙な具合にゆがむ。つんのめるように自室に入ったが、部屋は出てきたときのまま、もぬけの空だ。どういうことだ。
 三十匹入ったのはこの目で見たし、現に大金魚ごとこうやって連れ出した。もしや炎に近づきすぎたか。
 ……いや、火事から助け出したせいか?
 そもそも連中が化けて出たのは、火事で命を落としたためだ。怨念の晴れた幽霊のたどる道は一つしかない。
 そこまで思った時、どっと涙が出てきた。そして、連中のことがそれほど嫌いではなかったのに気づいた。何も言わずに消えるなど薄情な話ではないか。今度こそ助かったというのに。
 もはや自分以外誰に見られもせず聞かれもしない部屋の真ん中で、上を向いたまま泣いた。泣き続けた。

(了)


補遺

 目が覚めると言いようもないだるさ。
 昨日の火事騒動がひびいているらしい。そして、本当の一人暮らしになってしまった空虚さが何と言ってもこたえた。面倒くさい連中だったが、いなくなってしまえなどと願った覚えは最近はない。起き上がる気力がわかずぼんやりと天井を見上げた。
 その目の前を、ゆったりと魚影がよぎった。
 奇声を上げて跳ね起きると、部屋のそこここで赤い色がぱっと動いた。ざっと三十はありそうだった。数えるまでもなく見覚えのある……いや、見間違えようもないピンポンパールと、ついでに大金魚バッグだ。
 呆然とした眼前に降りてきたのはなぜか、実に見事なニシキゴイ三匹。
 そういえばあの燃えた家には池があると聞いた気がするが。となるとゆうべ金魚連中が消えていたのは、もしやこのコイどもを迎えに……
 待て。そうなるとまた同居魚どもの勢力が増すということか。そして何より、昨日の涙はどうなる。他ならぬこいつらのためにーリットルばかり流してやった涙は。
 腑に落ちない。何もかも腑に落ちない。喉の奥に引っかかるもやもやを言葉に出せず、布団の上で頭を抱えた。

(今度こそ了)
三題噺

三題噺

嫉妬/金髪/駄目なひと

「一家で野球をする」が父の口癖で、当然の結果として僕らは九人姉弟だ。その父にひょんなことから隠し子が発覚、問い詰めるとあちらの兄妹も九人だという。ほら試合には二チーム要るだろという言い訳の途中で怒髪天の長姉が父をぶっ飛ばし、泣き崩れる母に寄り添う子供一同、修羅か般若の面相である。

嫉妬/茶髪/ひとりぼっち

ともあれ双方全員で対面、母親二人も加え二チーム対戦へと雪崩れ込む。あちらの兄妹九人のうち二人は幼児とてなぜか僕が貸し出され、情け無用の九回勝負が開幕。頼んでもいないのにジャッジに立つ父の開口一番「プレイボォォーイ!」を怒髪天の長姉のバット、あちらの長兄のボールが物理的に黙らせる。

薬/日焼け/自己防衛

六回を終え勝負は一進一退、火花散る熱戦どころか艦砲射撃の応酬である。僕はと言えば試合を追うのもやっとの運動音痴、敵(実家)の支援どころかよりによって飛んできた長姉のエラー球を味方(他家)の長兄怖さに見事キャッチ。お兄たんスゴい、味方(他家)の幼児二人に和む僕に長姉の拳がめり込む。

ベッド/日焼け/ペダンチック

布団に寝転ぶ僕を幼児二人が踏んでマッサージしてくれる。結局15回引き分け後、両家は我が家の居間で親睦雑魚寝お泊り会だ。蓋を開ければ僕一人が両家の長子に殴られまくる展開で、抗議すると、要領の良さが父に似てると全員が即答。災い転じて福と成せ、いい事言った風の父を幼児の暴投球が捕えた。
#国境奉行所

#国境奉行所

 陽気はすっかり春めいて、琵琶を抱えた謡唄いの「先生」は、市の片隅で花の謡を唄い始める。誰もが知る謡も、先生の口から聴くと格別だと皆が口をそろえる。
 霞の中の山桜。足元を彩る菫。生まれつき盲目の先生は、自分の目では見えないはずのそれらを楽しげに唄う。
 すると立ち止まって聴く者たちは、足裏に柔らかな新芽を感じ、指先に枝もたわわな花房を感じ、頬の産毛に軽やかな風を感じる。吸った息に匂う緑は舌先に滴るような湿気を含み、遠くにヒバリの声がしたようにも思われる。若々しい万物の命が身の周りにひしめく気配、それが唄の聞こえるあいだじゅう続く。

 その帰途。夜にしては人が多いようだと訝る先生は、そのじつ百鬼夜行の真っ只中に踏み込んでいることにまだ気付いていない。しかし普段ならそんな人間を生かしておかぬはずの魍魎共は、不審げに遠巻きにして歩き続けるばかりだ。それも道理、先生が戯れに口ずさむのは、かつて暮らした妖怪郷の謠だ。あやかしの間でも今は失われたはずの、一人で三つの声を重ねる謡法を、ヒトの身ながら小声で響かせ、魑魅魍魎を引き連れて先生はゆく。
義眼

義眼

 馬から落ちて片目を失くされた若様のため、殿様は高価な義眼をこしらえなさることにした。おれが隣の領地へ売られることになったのは、そうしなければ義眼造りに払う金がないからで、金がないのはお屋敷が実はとっくに貧しかったからだ。
 若様はおれと友達のようにして下さったから、おれは若様のためなら構わないと思ったけれど、若様はずいぶんお泣きになり、せめて義眼をおれの目とそっくりにするのだとおっしゃって聞かなかった。最後は殿様が、義眼の材料は失くした目だから、こいつの目をくり抜かねばならぬぞと脅かし、ようやっとなだめられた。
 できあがった義眼は、周りの明るい青から瞳の静かな茶までまるで元通りで、若様のお顔に収まると左右どちらが本物か見分けがつかなかったということだ。足元を見た義眼造りが前払いを要求したから、おれはもう隣の領地へ移されていたのだ。
 そうまでして造った義眼なのに、その後数年で若様のお墓に納まってしまった。流行り病が領内を襲ったとき、若様は立てこもる代わり、領民のために文字通り手を尽くされ、倒れられたそうだ。

 そう聞いていたのに、若様の義眼がこの場にある。
 義眼造りがお屋敷に納めたのは、偽の義眼だったのだ。
 
 義眼造りのこしらえた義眼は確かによくできていたが、本当に注文通りなら左右の見分けがつかないわけはない。
 若様は両目の色が違う。残っている目は義眼のとおりだが、失くされた片目は、瞳の真ん中から左側が少し明るい茶、右側がほとんど黒に近い茶だ。
 顔を寄せて見ないと分からないから、親しい者しか知らない。殿様はあまりお目が良くないし、お屋敷の鏡は曇っているから若様もご自分では分からないとおっしゃっていた。
 だから、注文の時はおれも立ち合い、元の目のことを義眼造りへ事細かに話した。
 義眼造りが言うには、若様の義眼を作っている最中、よその領地の奥方がたいそう気に入られ、ご所望になったそうだ。
 ――でも、この色はわたくし一人のものでなくては嫌よ。
 その奥方はそうおっしゃり、法外な大金を置いてゆかれた。それに目がくらんだ義眼造りは、前払いを理由におれを遠ざけ、若様の無事なほうの目に合わせた義眼をお屋敷に届け、本物の義眼は奥方に渡した。
 くだんの奥方は、ちゃんと両目が見えていらした。ただの気まぐれで、若様から目をお取り上げになり、それを終生持っていらした。
 流行り病で亡くなるまで。
 使われなかった義眼でも、奥方の手で触れられるうちに病が移る。
 義眼は奥方の身体ではなかったから、奥方が亡くなった後も埋められず、形見分けでご家族の間を転々とし、病を移し続けた。
 さすがに気味悪がられ、捨ててくるよう仰せつかったのが、そのお屋敷では一番新しい使用人のおれだった。
 
 全てを話してくれた礼代わりに、おれは若様の義眼をはめ込んでやるつもりで、椅子にくくった義眼造りの片目をくり抜こうとした――
 が、やめた。おれも病を持っているはずだから、これだけしゃべればこの男にももう移したろう。
 だいいち、こいつに若様の義眼を使ってやる義理はない。
 亡くなる間際、若様は、おれが領地にいなくてよかったと言われたそうだ。
 そのお心遣いは無駄になったけれど、若様のおきれいな目には、もっときれいなものを見せてやりたいのだ。

※お題…写真参照(青猫亭たかあきさん提供)
蔵出し3(4件)

蔵出し3(4件)

013:深夜番組

「であい系」と称されるサイトも実は数種類に細分化される。最も一般的な「出会い系」は無論人間同士の利用が前提で、「出逢い系」になればより熱い逢瀬が期待できる。「出合い系」は動物や物との触れ合いを望む者が密かに訪れるが、稀に人間を求める人外の何がしかが紛れ込むとも言われる。最後の「出遭い系」についての詳細はわからない。これまでの利用者がことごとく、戻ってこないためだ。

015:ニューロン

人間の輪廻転生の行き先は未来とは限らない。過去へと生まれ変わったうちでごくたまに元の記憶を持ったままの者こそが、予言者としての素質を持つ。が、そこは不完全な人間のこと。予言者同士の意見がぶつかるのはつまり、どちらか(あるいは両方)が記憶違いをしているのだ。

097:アスファルト

数ある蝶の中にはメモ蝶という連中がおり、捕まえて本を開くように翅を開けば中の文字が読めるのだ。そう教えてくれたのは隣家の男の子だが、彼は勉強がすこぶる苦手で、中学に上がった時にも漢字があまり読めなかった。それを指摘すると、彼らの文字を先に覚えたせいだという。嘘だと思うなら、地面じゃないとこに生えてる花にくる蝶を、どれでもいいから一匹捕まえてみなよ。彼はにやっと笑いながら言った。
ベランダのプランターとか、アスファルトの割れたとことか、塀の隙間とか、そんなとこに離れ小島みたいに生えた草花同士が寂しがらないように、奴らは交換日記代りになってやってるのさ。
そんなことを思い出したのは、ビルの屋上庭園で翅を休めていた蝶を見たからだ。ゆっくりと開いたり閉じたりを繰り返す翅の内側に、確かに文字のようなものが見えたのだ。
お約束通り学校卒業後に出てきた都会は砂漠のようで、いつも休憩時間にオフィス街を一人見下ろしている。その上空へふっと舞い上がった蝶が風に運ばれ、眼下の路地裏へ降りる。それを追った視線が、路地裏の小さな公園から蝶を見上げる男性の目と合った。間違いない。きっと文字を読んだのだろう、ずいぶん懐かしい目。

100:貴方というひと

かつて私は生みの親に二度名前を奪われた。
一度目は彼がネットデビューしたとき。ハンドルネームを決める必要に駆られ、彼は自作の物語の登場人物だった私の名前を使った。新しい名がつくまでのひと月あまり、私はまったくの名無しのまま、幽霊のように過ごしたものだ。実際、私のようにいまだ文字にも絵にもなっておらず誰かの頭の中にいるだけのキャラクターにおいて、名前がないことは存在しないこととほぼ変わらない。
二度目は彼が別の物語を作ったとき。彼の中に新しい世界、新しい登場人物が出来たときから恐れてはいたが、案の定彼は主人公に私の名を与え、私はまたしても別の名をあてがわれた。
私のものだった名を持つ主人公は、その世界と共にどんどん育ち、文章ファイル上にその物語を進めてゆく。私のファイルはといえばいつまでもメモのまま、ドライブの下方へ下方へと追いやられていった。いつしかリスト上には新たなファイル名が地層のように積み重なり、私はこのまま化石になってゆくのだと思われた。
あるとき彼のPCに侵入したウィルスが、その堆積に微かな隙間を空けた。そこから私はあっという間に引っ張り出され、気付くと果てしないオンライン上に放り出されていた。その後無数の目が私を読み、幾度か複製もされた。
こののち生みの親の中で私の物語が進むことはもうないだろう。が、少なくとも、この名を奪われることももうないはずだ。
蔵出しその2(3件)

蔵出しその2(3件)

018:ハーモニカ

 下位の者が身に着けるのを許されない「禁色」という色が存在した時代から幾星霜、この世の色という色は商品となった。

 色を買い占めたのは一人の富豪で、彼は「色王」の名で呼ばれた。人々に許されたのは自ら持って生まれた体の色と、衣服のための黒と白。他の色はみな色王に法外な金を払わねば使うことができず、絵画も服飾も凝った料理もみな一握りの金持ちの娯楽だった。
 これに逆らい、ある者は色とりどりの糸を縒り合わせて黒に見せかけようとした。またある者は協力者たちから様々な色の髪を譲り受け「持って生まれた色」のみで服を編もうとした。が、いずれも色王の逆鱗に触れ、生涯最高の色を与えてやるとの名目で刑場に赤い血の花を咲かせた。

 かくて庶民の間では、白黒二階調で描かれる模様や切り絵が大きな発達を遂げ、それらを使った影絵芝居もさかんに行われた。ちまたのガス抜き効果を考えてか色王もさすがにこれは咎めず、影絵芝居は庶民にとって最大の娯楽となった。
 その音楽にはいろいろな楽器の名手や美しい声の歌手が幾人もつき、芝居にとって欠かせぬ存在である。
 色王はまだ気づかない——彼らが自由に操り、人々を楽しませているものこそ、音色・声色と呼ばれるものであることに。

025:のどあめ

 貧しい機織り娘が街の人気歌手に恋をした。
 身分違いを知りながらも娘は織った布を捧げ、想いのたけを告げたが、歌手はすげなく跳ねつけた。身の程を思い知った娘は、さよならと一言呟いて雑踏に消えた。
 その途端、歌手の手の中の布がさあっと鮮やかな青に変わった。
 驚いた彼が布へ自分の声をかけると、布は深い紅色になった。娘の布は特別な織り方をされていて、当たった音の波によって繊維が動き、光の照り返し方が変わるのだった。
 歌手はその布を衣装に仕立てさせ、舞台で着るようになった。歌によって極彩色に移ろう服は彼の美声とともに評判を呼び、彼はいつしか売れっ子になっていった。
 だが彼がいくら声を工夫し、歌に技巧を凝らしても、青だけはどうしても出なかった。
 はじめ熱狂的に彼の歌を聴いた人々も、次第に服にばかり目がいくようになった。その服が青にならないと知れ渡ったのはすぐで、青色が出ないのは彼の歌唱力不足のせいだと人々はしきりに囁いた。

 それでも、歌手はその服を脱がなかった。
 もはやその服なしで名を保てなかったこともあるが、一番の理由はほかでもない。
 売れっ子の彼に向けられる言葉は、たいてい彼の服をろくでもない色に変えた。騙そうとする言葉、哀れむ言葉、媚びを売る言葉。相手がどんなにうわべを繕っても、服はその響きを見抜いて色を変える。
 騙されてたまるか。相手の狼狽を横目に、彼は心で呟くのだった。

 事故は舞台で起こった。これまでで一番大きな舞台で、歌手は今まで以上に熱をこめて新曲を披露した。服はその声で七色に移ろい、人々は耳と目で酔いしれた。
 その時、客席から野次が飛んだ。ライバル事務所の嫌がらせだったが、不意を突かれた歌手は歌詞を飛ばし、思わずつかえて黙った。
 バンドマン、客席、全員が凍りついた中、彼はどうにか立て直したが歌い出しの声が震え、その途端に服は灰色に濁った。
 客席からブーイングがとんだ。それは瞬く間に広がり、歌手の声をかき消して服の色をどす黒く変えた。
 と、騒ぎを突いて、声が彼の耳を貫いた。

 ——頑張って。

 途端、服が目の覚めるような青に変わった。
 観客は水を打ったように静まり、歌手は満座の客席の隅っこの隅っこに、あの機織り娘を見つけた。
 彼が再び歌いだした時、服は今までで一番美しい紅色に変わった。

 二度のアンコールが済み、幕が下りると、歌手は舞台から駆け出した。出口の物陰に隠れ、興奮さめやらぬ人々を目で追う。
 と、あの機織り娘が逃げるように出て行く姿が映った。彼は駆け寄り、声を掛けた。
 ——ねえ、きみ。

 娘はぱっと振り返った。まず柔らかな黄色に染まった服が目に入り、相手の顔が目に入った。

038:地下鉄

置き忘れのビニール傘を取りに来る人間はまずいない。ターミナル駅ともなればなおさらで、棚にひっそり並ぶ傘たちは忘れ者というより漂着物に近い。
その傘をもらいに来る者たちがいることを知るのは、駅員の中でもごく一部だ。

深夜、事務室のドアを小さく叩く音がする。遅番の駅員がドアを開けてやると、それが立っているという。
それは小さな子供の姿だったり老人だったり、あるいは何ともつかない見た目をしていたりする。が、みな古い着物を着て背を丸め、押し黙っているのでそれと知れる。
保管期限切れの傘のうちきれいな幾本かを駅員が見せると、それは気に入った一本を抜き取り、室内にも関わらずぱっと開くと、差したままどこかへ去るという。
害は特にない。

それらの正体をわざわざ探った駅員はいない。が、それらが来た日には必ず、駅の近くでどこかの店が畳まれているとか。
——再開発で商店街が立ち退いた時期は、一晩に四人も五人も来ましたっけ。
やっぱり自分の居るとこが欲しいんでしょうね。年かさの駅員は語る。
——あのヒトら、一体どこへ行くやら。
036:きょうだい ※蔵出し

036:きょうだい ※蔵出し

 父を破産に追いやり一家に辛酸を舐めさせた市長に復讐すべく、兄弟は市庁舎へ向かっていた。午後四時に出てくる市長の後をつけて亡き者にし、そのまま逃げる手はずである。
 が、最寄り駅に降りたところで目の前の中年リーマンがひっくり返って痙攣を始めた。やむなく兄が軍隊で覚えた心臓マッサージを試み、弟がAEDへ走りながら携帯で1、1、9。救急車が駆けつけた時には適切な救命措置で蘇生した患者を残し「勇敢な市民」は消えていた。
 思わぬ寄り道に時間をくった兄弟、商店街に入ったところで銀行から出てきた強盗二人と鉢合わせ。兄がとっさに一人を叩きのめす間に逃げる車のナンバーを弟が記憶、強盗の鼻血でアスファルトにきっちり書きつけて再びトンズラ。
 さらに時間のおしてきた兄弟、道路に転がったサッカーボールにつまずいた拍子に持ち主の子供へパスし、信号点滅の横断歩道に駆け込んでうっかりぶつかった老婆をトラックの軌道から救い、火事のビルから飛び降りた猫十匹を頭で受け止め、艱難辛苦の末ついに市庁舎へたどり着いた。
 が、その場は何があったか黒山の人だかり。ようやく入った最前列は警察のバリケードで封鎖され、手錠姿の市長がまさに連行されてゆくところ。隣のTVレポーターが読み上げるには「市長、汚職で逮捕」。
 やがてパトカーが人波に消え、野次馬が散った後には呆然と佇む兄弟だけが残された。
 と、足元ですすり泣く小さな声、見下ろせば幼稚園ほどの女の子がうずくまって泣いていた。顔を見合わせる二人、父一人娘一人の市長の子煩悩ぶりは有名だったのだ。こんな小さい子泣かすなよ糞親父。ため息ついたものの一歩ずれれば危うく自分たちが泣かす側だったことを思い出し、ついでに昔自分たちを泣かした父親のことも思い出し、まあ吉牛でも行こうやと幼女の手を引いて退場。

 ほどなく彼ら兄弟をめぐり「未成年者誘拐犯」と「商店街のヒーロー」で世論が真っ二つに割れ、当の幼女が「優しいおじちゃんたち」に完全に懐いたことで事態がさらに紛糾したのはさておく。
006:ポラロイドカメラ

006:ポラロイドカメラ

 夏の暮れ方、空のそこここに塊をなす雲の、奥のひとつだけがぱっと内から発光した。
 それだけが雷雲なのだ。そう思ったきり忘れて家に帰ったが、実はあれが雷神の婿探しであって、あの瞬間、雷光を見た僕の姿もまた雷雲に焼き付けられたのだそうだ。
 それを知ったのはその夜、散歩に出た空に浮く雲を見た時だ。お前に決めた。そんな声が確かに聞こえ、巨大な巨大な鯨のごとき雲の、ちょうど目の位置が切れた奥にぎらりと光った一番星が、思わず見上げた僕の眼を彼方より射すくめた。
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