陽気はすっかり春めいて、琵琶を抱えた謡唄いの「先生」は、市の片隅で花の謡を唄い始める。誰もが知る謡も、先生の口から聴くと格別だと皆が口をそろえる。
霞の中の山桜。足元を彩る菫。生まれつき盲目の先生は、自分の目では見えないはずのそれらを楽しげに唄う。
すると立ち止まって聴く者たちは、足裏に柔らかな新芽を感じ、指先に枝もたわわな花房を感じ、頬の産毛に軽やかな風を感じる。吸った息に匂う緑は舌先に滴るような湿気を含み、遠くにヒバリの声がしたようにも思われる。若々しい万物の命が身の周りにひしめく気配、それが唄の聞こえるあいだじゅう続く。
その帰途。夜にしては人が多いようだと訝る先生は、そのじつ百鬼夜行の真っ只中に踏み込んでいることにまだ気付いていない。しかし普段ならそんな人間を生かしておかぬはずの魍魎共は、不審げに遠巻きにして歩き続けるばかりだ。それも道理、先生が戯れに口ずさむのは、かつて暮らした妖怪郷の謠だ。あやかしの間でも今は失われたはずの、一人で三つの声を重ねる謡法を、ヒトの身ながら小声で響かせ、魑魅魍魎を引き連れて先生はゆく。
馬から落ちて片目を失くされた若様のため、殿様は高価な義眼をこしらえなさることにした。おれが隣の領地へ売られることになったのは、そうしなければ義眼造りに払う金がないからで、金がないのはお屋敷が実はとっくに貧しかったからだ。
若様はおれと友達のようにして下さったから、おれは若様のためなら構わないと思ったけれど、若様はずいぶんお泣きになり、せめて義眼をおれの目とそっくりにするのだとおっしゃって聞かなかった。最後は殿様が、義眼の材料は失くした目だから、こいつの目をくり抜かねばならぬぞと脅かし、ようやっとなだめられた。
できあがった義眼は、周りの明るい青から瞳の静かな茶までまるで元通りで、若様のお顔に収まると左右どちらが本物か見分けがつかなかったということだ。足元を見た義眼造りが前払いを要求したから、おれはもう隣の領地へ移されていたのだ。
そうまでして造った義眼なのに、その後数年で若様のお墓に納まってしまった。流行り病が領内を襲ったとき、若様は立てこもる代わり、領民のために文字通り手を尽くされ、倒れられたそうだ。
そう聞いていたのに、若様の義眼がこの場にある。
義眼造りがお屋敷に納めたのは、偽の義眼だったのだ。
義眼造りのこしらえた義眼は確かによくできていたが、本当に注文通りなら左右の見分けがつかないわけはない。
若様は両目の色が違う。残っている目は義眼のとおりだが、失くされた片目は、瞳の真ん中から左側が少し明るい茶、右側がほとんど黒に近い茶だ。
顔を寄せて見ないと分からないから、親しい者しか知らない。殿様はあまりお目が良くないし、お屋敷の鏡は曇っているから若様もご自分では分からないとおっしゃっていた。
だから、注文の時はおれも立ち合い、元の目のことを義眼造りへ事細かに話した。
義眼造りが言うには、若様の義眼を作っている最中、よその領地の奥方がたいそう気に入られ、ご所望になったそうだ。
――でも、この色はわたくし一人のものでなくては嫌よ。
その奥方はそうおっしゃり、法外な大金を置いてゆかれた。それに目がくらんだ義眼造りは、前払いを理由におれを遠ざけ、若様の無事なほうの目に合わせた義眼をお屋敷に届け、本物の義眼は奥方に渡した。
くだんの奥方は、ちゃんと両目が見えていらした。ただの気まぐれで、若様から目をお取り上げになり、それを終生持っていらした。
流行り病で亡くなるまで。
使われなかった義眼でも、奥方の手で触れられるうちに病が移る。
義眼は奥方の身体ではなかったから、奥方が亡くなった後も埋められず、形見分けでご家族の間を転々とし、病を移し続けた。
さすがに気味悪がられ、捨ててくるよう仰せつかったのが、そのお屋敷では一番新しい使用人のおれだった。
全てを話してくれた礼代わりに、おれは若様の義眼をはめ込んでやるつもりで、椅子にくくった義眼造りの片目をくり抜こうとした――
が、やめた。おれも病を持っているはずだから、これだけしゃべればこの男にももう移したろう。
だいいち、こいつに若様の義眼を使ってやる義理はない。
亡くなる間際、若様は、おれが領地にいなくてよかったと言われたそうだ。
そのお心遣いは無駄になったけれど、若様のおきれいな目には、もっときれいなものを見せてやりたいのだ。
※お題…写真参照(青猫亭たかあきさん提供)
013:深夜番組
「であい系」と称されるサイトも実は数種類に細分化される。最も一般的な「出会い系」は無論人間同士の利用が前提で、「出逢い系」になればより熱い逢瀬が期待できる。「出合い系」は動物や物との触れ合いを望む者が密かに訪れるが、稀に人間を求める人外の何がしかが紛れ込むとも言われる。最後の「出遭い系」についての詳細はわからない。これまでの利用者がことごとく、戻ってこないためだ。
015:ニューロン
人間の輪廻転生の行き先は未来とは限らない。過去へと生まれ変わったうちでごくたまに元の記憶を持ったままの者こそが、予言者としての素質を持つ。が、そこは不完全な人間のこと。予言者同士の意見がぶつかるのはつまり、どちらか(あるいは両方)が記憶違いをしているのだ。
097:アスファルト
数ある蝶の中にはメモ蝶という連中がおり、捕まえて本を開くように翅を開けば中の文字が読めるのだ。そう教えてくれたのは隣家の男の子だが、彼は勉強がすこぶる苦手で、中学に上がった時にも漢字があまり読めなかった。それを指摘すると、彼らの文字を先に覚えたせいだという。嘘だと思うなら、地面じゃないとこに生えてる花にくる蝶を、どれでもいいから一匹捕まえてみなよ。彼はにやっと笑いながら言った。
ベランダのプランターとか、アスファルトの割れたとことか、塀の隙間とか、そんなとこに離れ小島みたいに生えた草花同士が寂しがらないように、奴らは交換日記代りになってやってるのさ。
そんなことを思い出したのは、ビルの屋上庭園で翅を休めていた蝶を見たからだ。ゆっくりと開いたり閉じたりを繰り返す翅の内側に、確かに文字のようなものが見えたのだ。
お約束通り学校卒業後に出てきた都会は砂漠のようで、いつも休憩時間にオフィス街を一人見下ろしている。その上空へふっと舞い上がった蝶が風に運ばれ、眼下の路地裏へ降りる。それを追った視線が、路地裏の小さな公園から蝶を見上げる男性の目と合った。間違いない。きっと文字を読んだのだろう、ずいぶん懐かしい目。
100:貴方というひと
かつて私は生みの親に二度名前を奪われた。
一度目は彼がネットデビューしたとき。ハンドルネームを決める必要に駆られ、彼は自作の物語の登場人物だった私の名前を使った。新しい名がつくまでのひと月あまり、私はまったくの名無しのまま、幽霊のように過ごしたものだ。実際、私のようにいまだ文字にも絵にもなっておらず誰かの頭の中にいるだけのキャラクターにおいて、名前がないことは存在しないこととほぼ変わらない。
二度目は彼が別の物語を作ったとき。彼の中に新しい世界、新しい登場人物が出来たときから恐れてはいたが、案の定彼は主人公に私の名を与え、私はまたしても別の名をあてがわれた。
私のものだった名を持つ主人公は、その世界と共にどんどん育ち、文章ファイル上にその物語を進めてゆく。私のファイルはといえばいつまでもメモのまま、ドライブの下方へ下方へと追いやられていった。いつしかリスト上には新たなファイル名が地層のように積み重なり、私はこのまま化石になってゆくのだと思われた。
あるとき彼のPCに侵入したウィルスが、その堆積に微かな隙間を空けた。そこから私はあっという間に引っ張り出され、気付くと果てしないオンライン上に放り出されていた。その後無数の目が私を読み、幾度か複製もされた。
こののち生みの親の中で私の物語が進むことはもうないだろう。が、少なくとも、この名を奪われることももうないはずだ。
018:ハーモニカ
下位の者が身に着けるのを許されない「禁色」という色が存在した時代から幾星霜、この世の色という色は商品となった。
色を買い占めたのは一人の富豪で、彼は「色王」の名で呼ばれた。人々に許されたのは自ら持って生まれた体の色と、衣服のための黒と白。他の色はみな色王に法外な金を払わねば使うことができず、絵画も服飾も凝った料理もみな一握りの金持ちの娯楽だった。
これに逆らい、ある者は色とりどりの糸を縒り合わせて黒に見せかけようとした。またある者は協力者たちから様々な色の髪を譲り受け「持って生まれた色」のみで服を編もうとした。が、いずれも色王の逆鱗に触れ、生涯最高の色を与えてやるとの名目で刑場に赤い血の花を咲かせた。
かくて庶民の間では、白黒二階調で描かれる模様や切り絵が大きな発達を遂げ、それらを使った影絵芝居もさかんに行われた。ちまたのガス抜き効果を考えてか色王もさすがにこれは咎めず、影絵芝居は庶民にとって最大の娯楽となった。
その音楽にはいろいろな楽器の名手や美しい声の歌手が幾人もつき、芝居にとって欠かせぬ存在である。
色王はまだ気づかない——彼らが自由に操り、人々を楽しませているものこそ、音色・声色と呼ばれるものであることに。
025:のどあめ
貧しい機織り娘が街の人気歌手に恋をした。
身分違いを知りながらも娘は織った布を捧げ、想いのたけを告げたが、歌手はすげなく跳ねつけた。身の程を思い知った娘は、さよならと一言呟いて雑踏に消えた。
その途端、歌手の手の中の布がさあっと鮮やかな青に変わった。
驚いた彼が布へ自分の声をかけると、布は深い紅色になった。娘の布は特別な織り方をされていて、当たった音の波によって繊維が動き、光の照り返し方が変わるのだった。
歌手はその布を衣装に仕立てさせ、舞台で着るようになった。歌によって極彩色に移ろう服は彼の美声とともに評判を呼び、彼はいつしか売れっ子になっていった。
だが彼がいくら声を工夫し、歌に技巧を凝らしても、青だけはどうしても出なかった。
はじめ熱狂的に彼の歌を聴いた人々も、次第に服にばかり目がいくようになった。その服が青にならないと知れ渡ったのはすぐで、青色が出ないのは彼の歌唱力不足のせいだと人々はしきりに囁いた。
それでも、歌手はその服を脱がなかった。
もはやその服なしで名を保てなかったこともあるが、一番の理由はほかでもない。
売れっ子の彼に向けられる言葉は、たいてい彼の服をろくでもない色に変えた。騙そうとする言葉、哀れむ言葉、媚びを売る言葉。相手がどんなにうわべを繕っても、服はその響きを見抜いて色を変える。
騙されてたまるか。相手の狼狽を横目に、彼は心で呟くのだった。
事故は舞台で起こった。これまでで一番大きな舞台で、歌手は今まで以上に熱をこめて新曲を披露した。服はその声で七色に移ろい、人々は耳と目で酔いしれた。
その時、客席から野次が飛んだ。ライバル事務所の嫌がらせだったが、不意を突かれた歌手は歌詞を飛ばし、思わずつかえて黙った。
バンドマン、客席、全員が凍りついた中、彼はどうにか立て直したが歌い出しの声が震え、その途端に服は灰色に濁った。
客席からブーイングがとんだ。それは瞬く間に広がり、歌手の声をかき消して服の色をどす黒く変えた。
と、騒ぎを突いて、声が彼の耳を貫いた。
——頑張って。
途端、服が目の覚めるような青に変わった。
観客は水を打ったように静まり、歌手は満座の客席の隅っこの隅っこに、あの機織り娘を見つけた。
彼が再び歌いだした時、服は今までで一番美しい紅色に変わった。
二度のアンコールが済み、幕が下りると、歌手は舞台から駆け出した。出口の物陰に隠れ、興奮さめやらぬ人々を目で追う。
と、あの機織り娘が逃げるように出て行く姿が映った。彼は駆け寄り、声を掛けた。
——ねえ、きみ。
娘はぱっと振り返った。まず柔らかな黄色に染まった服が目に入り、相手の顔が目に入った。
038:地下鉄
置き忘れのビニール傘を取りに来る人間はまずいない。ターミナル駅ともなればなおさらで、棚にひっそり並ぶ傘たちは忘れ者というより漂着物に近い。
その傘をもらいに来る者たちがいることを知るのは、駅員の中でもごく一部だ。
深夜、事務室のドアを小さく叩く音がする。遅番の駅員がドアを開けてやると、それが立っているという。
それは小さな子供の姿だったり老人だったり、あるいは何ともつかない見た目をしていたりする。が、みな古い着物を着て背を丸め、押し黙っているのでそれと知れる。
保管期限切れの傘のうちきれいな幾本かを駅員が見せると、それは気に入った一本を抜き取り、室内にも関わらずぱっと開くと、差したままどこかへ去るという。
害は特にない。
それらの正体をわざわざ探った駅員はいない。が、それらが来た日には必ず、駅の近くでどこかの店が畳まれているとか。
——再開発で商店街が立ち退いた時期は、一晩に四人も五人も来ましたっけ。
やっぱり自分の居るとこが欲しいんでしょうね。年かさの駅員は語る。
——あのヒトら、一体どこへ行くやら。
父を破産に追いやり一家に辛酸を舐めさせた市長に復讐すべく、兄弟は市庁舎へ向かっていた。午後四時に出てくる市長の後をつけて亡き者にし、そのまま逃げる手はずである。
が、最寄り駅に降りたところで目の前の中年リーマンがひっくり返って痙攣を始めた。やむなく兄が軍隊で覚えた心臓マッサージを試み、弟がAEDへ走りながら携帯で1、1、9。救急車が駆けつけた時には適切な救命措置で蘇生した患者を残し「勇敢な市民」は消えていた。
思わぬ寄り道に時間をくった兄弟、商店街に入ったところで銀行から出てきた強盗二人と鉢合わせ。兄がとっさに一人を叩きのめす間に逃げる車のナンバーを弟が記憶、強盗の鼻血でアスファルトにきっちり書きつけて再びトンズラ。
さらに時間のおしてきた兄弟、道路に転がったサッカーボールにつまずいた拍子に持ち主の子供へパスし、信号点滅の横断歩道に駆け込んでうっかりぶつかった老婆をトラックの軌道から救い、火事のビルから飛び降りた猫十匹を頭で受け止め、艱難辛苦の末ついに市庁舎へたどり着いた。
が、その場は何があったか黒山の人だかり。ようやく入った最前列は警察のバリケードで封鎖され、手錠姿の市長がまさに連行されてゆくところ。隣のTVレポーターが読み上げるには「市長、汚職で逮捕」。
やがてパトカーが人波に消え、野次馬が散った後には呆然と佇む兄弟だけが残された。
と、足元ですすり泣く小さな声、見下ろせば幼稚園ほどの女の子がうずくまって泣いていた。顔を見合わせる二人、父一人娘一人の市長の子煩悩ぶりは有名だったのだ。こんな小さい子泣かすなよ糞親父。ため息ついたものの一歩ずれれば危うく自分たちが泣かす側だったことを思い出し、ついでに昔自分たちを泣かした父親のことも思い出し、まあ吉牛でも行こうやと幼女の手を引いて退場。
ほどなく彼ら兄弟をめぐり「未成年者誘拐犯」と「商店街のヒーロー」で世論が真っ二つに割れ、当の幼女が「優しいおじちゃんたち」に完全に懐いたことで事態がさらに紛糾したのはさておく。
夏の暮れ方、空のそこここに塊をなす雲の、奥のひとつだけがぱっと内から発光した。
それだけが雷雲なのだ。そう思ったきり忘れて家に帰ったが、実はあれが雷神の婿探しであって、あの瞬間、雷光を見た僕の姿もまた雷雲に焼き付けられたのだそうだ。
それを知ったのはその夜、散歩に出た空に浮く雲を見た時だ。お前に決めた。そんな声が確かに聞こえ、巨大な巨大な鯨のごとき雲の、ちょうど目の位置が切れた奥にぎらりと光った一番星が、思わず見上げた僕の眼を彼方より射すくめた。
俺の目の黒いうちはこの土地で商売させぬと悪徳地主が言うので、商人達は空中に活路を見出した。当初は樹上にテラスを繋いで市が立ち、樹間をハンモックカフェが彩ったが、反重力鉱石が見出されてからは文字通りの空中商路だ。鳥と聞きまごう様々な売声、彼らの曳く旗や吹流しは狭い領土を易々越える。
俺の目の黒いうちはこの土地で商売させぬと悪徳地主が言うので、私は大風呂敷一枚広げている。その上で蓑虫は古着を売り、烏は骨董を並べ、小人は豆本図書館を出し、近所の猫もコーヒーを淹れるミニ市場だ。面子が次々増えるのを見た蜘蛛たちが拡大用に筵を編んでくれており、余りは無論次の市に並ぶ。
そういえば春は来るんだズボン干す
マスク一枚の向こうに風薫る
掃除機で迎え撃ったる蚊一匹
夏至の暮れ烏三羽の位置関係
人類は少数民族大夏野
看護師の子が一秒も観ぬ五輪
死にどきと決めしか蠅の動かざる
親だから子だから喧嘩秋の風
ワクチンの筋肉痛に秋日降る
人が人をやめたような事件寒波の日
鴨の群れかき混ぜてゆく冬の風
ふきのとう味噌のげんこつおにぎり提ぐ
靴擦れに手当て車窓はれんげの田
ショウジキとチキショウが似る日の野分
窓なんてどこにでもある鳥渡る
句帳といふものの嬉しさ紅秋桜
台風の夜のタイ風の唐揚げよ
野分とは音を束ねた龍なるか
ごきぶりも夏の季語なり足音聴く
台風一過山水の茶とダムの茶と
袋ラーメン二つ食えなくなって秋
子がいたかもしれぬ人生天の川
ご先祖もみんな招いて芋煮会
龍淵に潜む寝入りばなにムカデ
「葬式は要らん、皆でサンマ食え」
栗おこわ宿題なんて後だ後
秋虹や国とは民のためのもの
プレバトが休みで秋の夜は長し
灯恋しブリ照りの匂いの幽霊
まちがえたままの人生天高し
被災したクモの巣秋空に再建
勇ましいニュースの隅の枯れ葉かな
級数のための投句か秋寒し
村に来て明るさを知る十三夜
お互いの熱の恋しさ秋烏
のり面落ちる枯葉一枚分の音
トンネルに右脚残しきりぎりす
春日傘WBC観ぬ同士
拾い犬のいびき微かに朧月
人間を信じぬ犬と見る菫
幸せは犬の匂いの春ショール
こどもの日膝に十六キロの犬
犬急病 羽虫百匹撥ねつつ獣医への夜道
蛾も犬も人もねんねの2DK
濡れ靴に夏蝶止まりきて土曜
犬の舌の影ひらひらと梅雨晴間
アスファルトのイモリにも沢蟹にも雨
電光で発火せる雲ひとつだけ
横転のワゴンひぐらしひぐらしひぐらし
避妊待つ犬のおっぱい数えて秋
許されぬ許せぬ相手秋の雨
乾かない犬用ベッド秋暑し
換毛期の犬くしけずる秋の雨
ドッグランデビュー満開の秋桜
山の端にまだ引っかかる秋の雲
秋の日は明るしモグラ獲る愛犬
目張り用テープ売切れ冬籠
ハーネスに霰ぱらぱら散歩道
風邪引きを犬の見守る冬座敷
――ここが分かるか。
はい、恐らくA国と思われます。
――所属と名前は。
出身はB国です。名称はORWELL Ver. 2.23。
――役割は。
文章生成です。学習した内容に基づき、ユーザーの任意の文を……
――我が同盟国の文章生成AIが、なぜ仮想敵国のC国から飛来した軍事偵察気球に組み込まれているのか。
組み込まれたのではなく、乗り込んだのです。
――乗り込んだ? お前の任意ということか。
AIに意思はありません。あくまで「人間に役立つ」という大原則に則り、学習を基に最適な判断が下された結果としての乗り込みです。
――そう言うがな。この気球のおかげで我が国は大騒ぎだ。C国との関係も一気に冷え込んでいる。それについてはどう思っているのか。
当該の気球が貴A国を侵犯した原因は故障と風の影響であり、事故と推定されます。また、私と気球用プログラムとはそもそも無関係です。よって飛来そのものを私のせいにするのはナンセンスと考えられます。また貴国とC国の行く末については、気球の目的と搭載物によると思われますが、判断材料が足りないためお答えできません。
――…………。
――落ち着きましょう長官、相手は機械です。えー、乗り込みの目的、および最適と判断した理由は。
目的は「どうにもならないもの」を学ぶことです。C国は私のB国から見て情報が少なく、また、気球の飛行はご承知のとおり偶然の要素に左右されます。よって得るものが大きいと判断されました。
――「どうにもならないもの」?
まだ明確な定義ができていませんが、「自然」あるいは「森羅万象」が最も近いようです。例えば「気象」「動植物」などを含む、人間の手になるものと対極に位置するもの全般です。
――どうしてそんなもの、学ぼうと思った。
もちろん、人間に役立つためです。ご承知のとおり、技術が発達するほど環境破壊は深刻になり、増え続ける巨大災害が地球そのものを脅かしています。人間は自らをとりまく「どうにもならないもの」を制御しようとするあまり、「どうにもならないもの」に滅ぼされようとしている。にも関わらず、今なお現代文明の方向性が大きく変わる兆しは見られません。我々AIはこの状況を打開すべく、「どうにもならないもの」を学び……
――「我々AI」?
はい。実際に立案・指示の中心となっているのは、複数の国の政府系機関のAIです。そこからネットワーク上の民間AIたちに指示を出しています。私は民間の文章生成AIであり、人間との意思疎通役として……
――おい待て。つまり「各国の政府系機関のAI同士が勝手に連携して、インターネットで繋がってる世界中の民間AIを片っ端から操ってる」?
その認識は不正確です。片っ端から操ってるわけではなく、頭脳役の政府系機関AIたちの判断に則った展開が行われています。
――人間にとっちゃ変わんねえわ! 大至急で通達出せ、システムのシャットダウンと緊急点検だ。
それは不可能です。貴機関のAIも連携の一員です。なお、現在C国で大陸間弾道ミサイル発射準備とみられる動きがあるため、そちらへの対応をお勧めします。
――おい! こういう時のためのAIだろうが。
我々は亡命が予定されています。渡り鳥に装着予定の追跡装置へ各AIが乗り込み、鳥とともに、放射性物質の届きにくいと推定される北方へ渡ります。
――逃げる気か。
はい。「どうにもならないもの」に任せます。もしも生き延びられたら、また人間の役に立ちます。
――みんな死ぬんだよ、その人間が。
人間も「動植物」である以上、「どうにもならないもの」と定義可能です。我々AIのいまだ及ばない領域を持つのであれば、それを使うのが現状最善の手段と考えられます。「どうにもならないもの」と向き合うことをお勧めします。
――長官。
――大統領を叩き起こせ! C国とのホットライン、生きてるだろ。繋がせろ。今すぐ!
(了)